③現在の学校教育では、非常に自然かつ巧妙な形で、政治的に非常に無力で、従順な国民の大量育成が行われている
第三には、これは、かなり巧妙な方法で行われるので、普通、誰にも気付かれないようなケースが、非常に多いのですが、多くの人々は、そうした学校教育の結果、まるで当然のことのように、「自分は、頭が悪くて、よく分からないから、政治や経済や文化みたいな難しいことは、どこかの勉強のできる偉い人に、すっかり任せておけばいい」、とか、「勉強のできる偉い人は、普通の人々とは、全く違った、ものすごく偉い人なので、そんな人達に楯突いて、文句を言っても、世の中なんて、全く変わらない」、というような人生観や世界観を持つようになってゆきがちなのですが、はっきり言って、申し訳ないのですが、これは、単に民主主義国の体裁だけが取れているだけで、基本的には、こうした感覚の人々が、数多く住んでいる国というのは、一昔前の偉い国王や貴族が、政治を取り仕切っていた国王制や貴族制(封建主義とも言いますが)の国と、実質的に、ほとんど変わりがないのではないか、ということなのです。
つまり、一昔前の王制や貴族制の国では、国王や貴族が、ものすごい権力を持っていたので、大多数の普通の人々は、基本的に、世間で、何を言おうが、騒ごうが、結局、そうした国王や貴族の大きな権力の前では、ほとんど無力であった、ということなのですが、それが、時代が変わって、現代のような民主主義国になると、基本的には、多くの人々の意思や行動で、政治というのは、はっきり言って、どのようにでも、大きく変化させられるような時代に移り変わったはずであるのですが、ところが、肝心要の、そうした大多数の普通の人々が、「とにかく、偉い人の言う通りにすればいい」、とか、「自分達は、頭が悪いから、難しいことなんて、よく分からない」、などと、いつの間にか、深く思い込むようになってしまうような教育を、大々的に受けさせられてしまうと、たとえ、現代のような時代であっても、形式的には、民主主義、だけど、実態は、偉い人の言いなり、やりたい放題の国王制や貴族制、という具合に、その国の政治の実態としては、いつの間にか、一部の特権階級のような人々が、ある程度、勝手に国の方向を動かしてゆけるような国家の体制になってゆきがちであった、ということなのです。
現在の教育体制は、多くの人々が,自ら自身の意思で、政治的に非常に無力で従順な国民になるように仕向けるための愚民化教育を行う、まるで「学校教」と言ってもよいような一種の疑似宗教のような役割を果たしていた
このように、現在の教育体制というのは、よくよく冷静に考え直してみると、一昔前のように、堂々と権力をちらつかせていたような国王制の時代とは、体裁自体は、かなり違うのですが、ところが、人生の最初の十年近い義務教育という手段を使って、多くの人々を、政治的に、非常に素直で従順な国民に育成してゆく、というような点においては、はっきり言って、一昔前の宗教以上に、結構、強力なマインドコントロールが可能な、一種の「学校教」のような疑似宗教の役割を果たしていた、ということが言えるのではないか、と私は考えております。
Cecye(セスィエ)