4、自分自身や、多くの人々の幸福の実現のために、その社会の道徳律や、国家の法律が邪魔になっている場合には、基本的に自分自身や他の人々を害さないという前提において、一部の道徳律は、思い切って無視するとか、法律を柔軟に素早く変更、もしくは、廃止するような働きかけが必要な場合もある
第四には、これも現代の地球の人々は、あまり深く考えたことがないような内容になると思うのですが、もし自分自身や、多くの人々が幸福になる上において、その社会における道徳律や、国家の法律が妨げになるのであれば、その時点において、もう一度、そうした道徳律や法律の、そのそもそもの前提や目的自体から、冷静によく調べ考え直してみて、その上で、もし何らかの形で、自分自身を害したり、貶めたりするわけでもなく、また、誰か別の人々を害したり、迷惑をかけたりするわけでもない、というように客観的に判断されるものに関しては、ある程度、融通を利かせて、自分としては、もう思い切って、その道徳律は無視して、自分の好きなようにやらせてもらうとか、あるいは、その法律は、政治家や政党に直訴したり、多くの人々に働きかけることによって、なるべく早く変更、もしくは、廃止するようにした方が、賢明であるということです。
これは、またページをあらためて、書きたいと思っている内容なのですが、基本的に道徳律にしても、国家の法律にしても、その社会における個人や多くの人々が、できるだけ平和に幸せに暮らしてゆくために、その時々の社会の状況に応じて設けられた、一種の一時的な決まり、もしくは、暗黙のルールのようなものであることが、ほとんどすべてなのではないか、ということなのです。
それゆえ、これは考えてみれば、当然のことであるのですが、「多くの人々の利便性や幸福よりも、道徳律や法律を遵守することの方が、絶対的に重要なのだ」とか、「道徳や法律を守らない奴は、社会のクズなのだ」というような主張というのは、本当は、そうした道徳や法律を多くの人々に守らせることによって、隠れた形で、いろいろな地位や利益を得ることができた一部の人々の都合を、うまく大義名分のオブラートを被せて述べたような、言ってみれば、一種の虚言(きょげん)というか、戯言(たわごと)に過ぎないようなところが、実際、多々あるのではないか、ということなのです。
ですから、本当は、その時々の社会の状況に合わせて、多くの人々が、最も幸福になれるように、社会の道徳律であれ、また国家の法律であれ、ある程度、柔軟に素早く変えてゆけるような社会の方が、ずっとずっと良いに決まっているということなのです。
それゆえ、これは現代でも、まだ、あまりはっきり述べるような人が、非常に少ない内容なのではないか、と私も思うのですが、もし自分自身や、あるいは、他の多くの人々が、不便や不自由を感じていたり、あるいは、非常に不幸を感じているような状況において、もっともっと自分自身や多くの人々が幸福になるために、その社会における道徳律や法律の変更や廃止が必要であると感じた場合には、これは当然、自分自身を害したり、貶めたり、あるいは、他の人々を害したり、迷惑をかけたりしないというような前提があっての場合なのですが、ある程度、融通を効かせて、自分自身としては、もうその道徳律は無視して、ある程度、自由にやらせてもらうとか、あるいは、政治家や政党に直訴したり、多くの人々に働きかけることによって、そうした法律の変更や廃止というものを、できるだけ柔軟に素早く行うことが非常に重要なのではないか、というように私は率直に考えております。
Cecye(セスィエ)
2011年3月31日 9:27 PM, Q&A / スピリチュアリズム、霊界 / 人生観、世界観 / 宗教、道徳 / 政治