霊界から見た、神様と信者の間によくありがちな宗教の風景
そうすると、こうした、よく宗教で行われているような「祈祷」や「瞑想」や「修行」と称する行為の中には、よく考えてみると、本当は宗教というよりも、単なる自己満足や、他の人々を驚かすためのパフォーマンスのような要素が、結構多かったのではないか、というような疑問が出てくるのですが、ここで宗教に携わったことのある人なら、誰しも一度は必ず疑問に思ったことがあるような素朴な疑問について、もう一度、深く考え直してみたいと思います。
それは、そうした宗教の信者の人々が、「いろいろ難しい宗教の話は、もう十分に聞かせてもらったし、それから、その宗教でやるべきことも大体、よく分かった」というような段階で、たいてい必ず出てくるような素朴な疑問、つまり、「ところで、その宗教の神様や仏様って、一体、どこにいるの?」というような素朴な疑問になってくるのですが、たいていの宗教の場合、「それは信じなくては、よく分からないんです」とか、「目に見えない霊界(天界)の、とにかく高い世界です」などというような答えが返ってくることが多いのですが、これは、よくよく冷静に考え直してみないとなかなか分かりづらいのですが、実は、先ほど述べたような宗教の修行をした場合には、そうした神や仏に関する想像上の雰囲気やイメージまでは、ある程度分かるのですが、それ以上のそうした「神や仏が、実際にいるのかどうか」とか、それから「神や仏は今、一体、どんなことを考えているのか」ということに関しては、絶対によく分からなくなってくるということなのです。
これは、ちょっと分かりづらいので、お話風にして説明したいと思うのですが、要はもし、そこに神様のような存在と、その信者がいるとすると、こうした宗教のあり方だと、大体、次のような客観的な風景になってしまうということなのです。
①神様と、敬虔な祈りを捧げる信者の間の霊的な風景
信者の人が、「神様、私をお救いください」とか、「神様、あなたを崇めます」とか、「神様、あなたを愛します」などと言いながら、とにかく「神」と呼ばれる存在に向かって、非常に強い念を浴びせながら、一つの強烈なイメージの投影をし続けようとしてゆきます。
すると神様の側は、「私は、いろいろ言ってやりたいのだが、それなら君の方も聞く耳を持ったらよいじゃないか」とか、「そんなに強い念力のような思いやイメージを浴びせられてきたら、何か言いたくても、君には全然聞こえないじゃない」とか、「この声すらも君、聞こえるの?」、「ちょっと君、その強い念力やめない?」、「一体、それ、いつまで続けるの?」、「やめないと何言っても、何にも聞こえないよ」などというな「神様」と呼ばれる存在と、信者の間の変な精神的な押し問答のようなものが、えんえんと続くことになってゆくのです。
ところが、その信者の側からすると、「まず神様に願い事を伝えるためには、このお祈りをした後にこの経文を読んで、それから一心不乱に神様のことを強く思い続けなくちゃいけない」とか、「とにかく神様にお願いするには、ひたすら心を清めて、何も考えないようにしないといけない」とか、「私は、神様のことを愛します。愛します。愛します」などと結構、一生懸命祈ったりしていることが多いのですが、これでは電話で言うと、相手の声は絶対に聞かないように自分の耳を強く押さえながら、一人で大きな声で一心不乱に怒鳴り続けているのと霊的には、さほど違いがないということになってしまうのです。
Cecye(セスィエ)
2010年12月24日 9:33 PM, スピリチュアリズム、霊界 / 宗教、道徳