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現在の試験制度というのは、多くの人々に、機械やロボットのような精神性を身に付けさせるための「ニセ幸福教」のような役割を果たしている Part 4

4、人間というのは、たくさんの試験を受けてゆくうちに、いつの間にか、まるで一種の「ニセ幸福教」のような疑似宗教に入信したかのような、異常な精神性を身につけるようになってゆく

 第四には、これは、かなり意外なことであると思うのですが、単に学校で勉強した、ということだけなら、それほど、大きな悪影響はないはずなのですが、ところが、試験というものを、何度も何度も受けさせられたような人間というのは、その後、次のような二つの点において、まるで一種の宗教に入信したかのような、非常に不思議な考え方と行動を、ずっと取るようになってゆく、ということなのです。

 

1、学校で、たくさんの試験を受けさせられると、多くの人々は、「自分より上の絶対的な命令者がいる」、とか、「自分と周りの人達とは、基本的に、全く別の存在なのだ」、というような強い信念を植え付けられるようになってゆく

 まず第一には、これは、よくよく冷静に考え直してみると、本当に、かなり不思議なことであるのですが、そうした試験というものを、何度も受けたことのあるような人間というのは、なぜか、その後、自分に対して、一方的に命令を与えてくるような、自分より上位の立場の存在というものを、何の疑問も抵抗も持つことなく、ごくごく自然に受け入れるようになってゆく、ということなのです。

 これは、みなさんご自身の経験を冷静に振り返ってみるとよく分かるのではないか、と私は思うのですが、おそらく、たいていの人は、小学校に入るまでは、何らかの勉強や習い事のようなものはあったとしても、それ以外の、あまりテストのようなものは、受けたことがなかったのではないか、と私は思うのですが、そうした小学校入学以前の子供は、よほど厳しく育てられたような子供を除いて、たいてい、パパやママや、それから、親族や近所の人々や、幼稚園の先生などがいても、それほど、そうした人々を、自分より、ものすごく上の存在とは、考えずに、わりとフラットな形で、自分の意見を言ったり、あるいは、他の人の意見を聞いたりしていることが多いのですが、ところが、これが、小学校に入ると、なぜか、突然、変わって、「先生は、絶対、自分より上の偉い人!」、とか、「お母さんやお父さんに、何でも聞かないといけない!」、などというように、かなり大きな精神面での変化が、生じてくることが多いのです。

 その理由としては、単に、「先生が、とても厳しいので、先生を、自分より、絶対、上の偉い人だと思った」、とか、「学校の雰囲気に慣れた」、というような理由だけではなくて、おそらく、学校に入学した後、次々と行われてゆくテストの数々によって、自分のテストの点数は、「前回は、55点」、「今回は、80点」、それから、隣の○○ちゃんのテストの点数は、「前回は、75点」、「今回は、ちょっと出来なくて、60点」、などというような経験を、たくさん繰り返すうちに、子供達の心境の中に、次のような五つの変化が生じたからなのではないか、ということなのです。

①それまでは、「自分は、やれば、何でも出来る」(つまり、何でも、やれば、絶対、100点になるはずだ!)、と、単純に思っていたのに、テストの数字を見る限り、「本当は、自分は、それほど、できない人間なんだ」、ということが、よく分かった。

②それまでは、周りの子供は、みんな同じお友達だと思っていたのに、同じ授業を受けているはずなのに、なぜか、試験をすると、いつも、よく出来る友達と、いつも、よく出来ない友達がいるので、きっと、本当は、自分達は、同じ人間なのではなくて、別々の違う人間なのだということが、はっきりと、よく分かった。

③先生の言うことを、よく聞いている子が、いつもテストの点数が高く、先生の言うことを、よく聞かない子は、いつも点数が悪いので、とにかく、先生の言うことを、よく聞かないと、ダメな人間なのだ、ということが、心底、よく分かった。

④みんな同じことをしているはずなのに、ある人は、いつも、よく出来て、ある人は、いつも、よく出来ない、ということは、人間は、元々、生まれながらにして、頭のいい偉い人と、頭の悪い馬鹿な人がいる、ということが、よく分かった。

⑤自分や自分の周りの友達と違って、先生だけは、いつも、一方的に、自分達に授業やテストをしたり、テストの採点や成績をつけられる、ということは、先生というのは、自分や周りの友達のような普通の人達とは、全然、違った、ものすごく偉い、特別な存在なのだ、ということが、心底、理解できた。

 というような、幼心における、かなりはっきりとした、大きな心境の変化が起きたのではないか、ということなのですが、ところが、実は、これは、次のような五つの点において、本当は、全部、ほぼ完全な錯覚だったのではないか、ということなのです。

①テストの点数のいい子供の親は、たいてい、教育熱心で、小さい頃から、早期教育を行ったり、塾に通わせたり、家で、こまめに勉強を見たりしていることが多いので、いっけん、みんなで同じように、学校で通っているつもりでも、本当は、みんな、全然、同じ条件ではなかった。

②塾などで、テスト専用の勉強をしている子供は、テストの点数が良いのは、本当は、当たり前なのだが、よくよく考えてみると、そうした成績の良い子供でも、塾などでは、最初は、分からなくて、点数が低かったり、苦手なものがあったりしたはずなので、本当は、それほど、天才とか、優秀というほどの違いはなかった。

③一部のよく出来る子供を除いて、それ以外の子供は、いくら、先生の言うことを聞いても、よく分からない、ということは、本当は、できない子供自身に問題があるのではなくて、そうではなく、そうした分からない授業を行っている先生か、もしくは、そうした先生に授業を行わせている学校自体に問題がある、というのが、よくよく考えてみると、正論なのではないか。

④世の中を見る限り、子供時代から、目を見張るような、天才として、活躍している人達というのは、ほぼ全員、その子供自身の才能や努力だけでなく、たいてい、その親自身が、子供に付きっきりで、ものすごいバックアップをしていることが多いので、こうした世の中の実態を見る限り、子供時代から、優秀な活躍をするような人達は、素晴らしい才能や能力を持っている、というのは、確かに事実なのだが、しかし、もし、もっと多くの子供達が、そうした外部からの優れたバックアップが受けられるようになっていたとしたら、今は、平凡人として、普通に暮らしているような人の中にも、本当は、ものすごい大天才がいた可能性というのは、ものすごくあるし、ひょっとしたら、それは、他ならぬ、自分自身だったかもしれない。

⑤別に「先生」や「教師」と呼ばれるような人達であっても、大人の目で見ると、有能な人もいれば、そうではなく、かなり無能な人達も、大勢、いるわけなので、別に「先生」や「教師」だからって、普通の人とは、全く違う、偉い人だとか、ものすごく優秀な人であるなんてことは、全くないし、また、そうした人達であっても、別に学校以外の所では、普通の人達と一緒に混じって、いろいろな遊びや娯楽もすれば、結婚や子育ても、普通にしているわけで、別段、ものすごく偉い、特別な人間というほどの存在ではない、というのは、至極、当たり前のことである。

 このように、確かに、いっけん、ごくごく自然な形をとってはいるのですが、実は、多くの人々が、小学校に入って以来、次々と行われる、たくさんのテストの数々によって、なかば、強制的に受け入れさせられてきた、自分自身や、自分の周りの人達や、あるいは、教師の人達に対する考え方というのは、本当は、かなり間違った、偏向した内容だったのではないか、ということなのです。

 こうした、はっきり言うと、一種の洗脳教育の結果、多くの人々は、なぜか、ほとんど無意識のうちに、「自分は、勉強やスポーツが苦手なんだ」、とか、「自分と周りの人達は、基本的に、全然、違う存在なんだ」、とか、「とにかく、自分より偉い人の言うことは、何も考えずに、よく聞くことが、重要なんだ」、というような考え方を持つようになりがちであるのですが、これは、はっきり言って、皆さんが、大嫌いな独裁国家における洗脳教育と、その本質において、全く、大して、変わりないような、非常に非人間的、というか、反人間的な、大変、お粗末な、人間を馬鹿にした内容だったのではないか、というのが、私の結論なのです。

 

 続く・・・

 

Cecye(セスィエ)

2010年12月19日 9:25 PM, 宗教、道徳 / 教育 / 知恵、正しさ



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