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現在の試験制度というのは、多くの人々に、機械やロボットのような精神性を身に付けさせるための「ニセ幸福教」のような役割を果たしている Part 3

3、国家が、試験制度に強い権威を与えると、ほぼ半自動的に、多くの国民の創造性や自由性が、制限されるようになってゆく

 第三には、これは、多くの人々にとって、かなり意外なことになるのではないか、と私は思うのですが、実は、試験制度というものに、その社会が、あまり強い権威、というか、信用を与えているような国というのは、その国の国民の「創造性」や「自由性」という二つの点において、かなり強力に、人為的に制限させることが、政治的に可能になる、ということなのです。

 

①現在の試験制度だと、試験で計れないような才能や能力は、すべて、0点、もしくは、マイナス点として、扱われてしまうので、そうした人間の才能開発や能力開発は、常になおざりにされがちだった

 これは、ちょっと説明が難しいのですが、要するに、試験制度を重用しているような国というのは、裏を返すと、そうした試験では、計れないような、その人の才能や能力というのは、すべて、0点、もしくは、落第点や馬鹿者として、扱うことになる、ということなのですが、そうすると、その人の人生にとって、後々、非常に大きな影響を及ぼすことになるような青少年期の間、そうした学校では、計れない才能や能力を持っている人間に関しては、たとえ、どんなに凄い才能や能力を持っていたとしても、学校では、原則、それらは、一切、評価せず、0点、もしくは、学校の勉強の障害として、マイナス点として、扱う、ということになるのですが、もし、こうした青少年期の間に、そうした学校で計れる以外の才能や能力を、積極的に評価し、そして、その才能や能力の開発に力を注いでくれるような国(親が、そうなるケースもありますが)があったとしたら、そうした国の方が、その人間の才能や能力が、より大きく開花し、より大きく活躍できるようになるはずである、ということなのです。

 この結果は、みなさんも、よくご存知の通りで、現在の世界では、それぞれの国が、こうした才能開発や能力開発の結果を、そのままストレートに反映するようになっているので、スポーツの世界であれば、「この競技は、この国が、得意!」、とか、科学技術や経済の世界であれば、「新たな発明や、新たなビジネスは、この国が、得意!」、などという具合に、これは、はっきりストレートに反映されることになっている、ということなのです。

 

②現在の試験制度だと、現在の社会に不満や反感を持っているような人間は、ほぼすべて、不良や劣等生扱いにされるだけでなく、その後も、ほとんど、何の言論の自由も、政治的な自由も行使しないような立場になりがちであった

 ところが、実は、こうした才能開発や創造性の観点ばかりでなく、こうした試験制度というのは、多くの人々の自由意志に基づく発言や行動の点においても、かなり大きな制限を加えることになっているのですが、それは、一体、何なのか、というと、これは、みなさんも含めて、みなさんの身の回りの人々を見回してみれば、はっきり言って、すぐに分かるような事実なのではないか、と私は思うのですが、実は、こうした試験制度に、非常に権威を持たせているような国においては、そうした国家の制度、というか、学校制度に対して、不満や反感を持っているような人間は、たいていの場合、すぐに、不良や劣等生扱いになって、その社会を牛耳っているエリートの世界からは、ほぼ自動的に、弾かれてしまうことになってしまう、ということなのです。

 その後が、さらに、あまり良くないのですが、こうした試験制度によって、その国のエリートコースから弾かれてしまった、いわゆる、不良や劣等生のような人々が、たとえ、少数でもいるような社会になると、たいてい、そうした国の社会というのは、次のような、大変、矛盾した三つの問題を抱えるような状況になってゆく、ということなのです。

 まず第一には、これは、そうした不良や劣等生として、扱われた当人の立場になるのですが、本人としては、何だか、よく分からないが、自分としては、現在の国や社会のあり方に対して、ものすごく不満があって、その上、それが、何となくではあるが、絶対に正しいはずだ、ということまでは、よく分かるのですが、それを、はっきりと論理立てて、人に説明することができなかったり、あるいは、学校での経験則から、それを言っても、誰も聞かないはずだ、と深く信じ込んでしまうことが多いので、それゆえ、そうした人々というのは、せっかく、民主主義国の市民として、生まれたのに、結局、その国で、何の有効な言論の自由も、政治的な自由も行使しないまま、社会的にアウトローな人生を、ずっと送るような状況になりがちであった、ということです。

 第二には、今度は、そうした人々を取り囲んでいる大多数の普通の人々の見方になるのですが、これも、非常に問題が多いのですが、現代のような学校制度だと、たいていの人は、そうした、ちょっとアウトローな格好や言動をしている人間を見ると、「どうせ、単なる、どうしようもない不良だろう」、とか、「どうせ、頭が悪い馬鹿なんじゃない」、などと思って、それで、何となく、すべて分かったような気になってしまうことが多いので、その結果、そうした人々が、なぜ、その社会に存在しているのか、とか、そうした人々は、本当は、一体、何がしたいのか、ということに関して、全く鈍感で、何も考えようとしなかったり、あるいは、そうした人々を、単に、自分より下のレベルの、どうしようもない人達、というような目で見て、それで、何となく、すべて分かったような気分になってしまいがちであった、ということなのです。

 第三には、これも、そうした人々が、その社会全体に及ぼす、マイナスの効果ということになるのですが、多くの普通の人々が、普段、どんなに地味で、お金も、それほどなくて、そして、不幸そのもののような生活をしていたとしても、こうした社会的に見て、少しランクが、下のように見えて、そして、比較的、低収入の人達がいると、なぜか、多くの人々は、そうした人々を見るだけで、「自分は、真面目に、やってるだけ、偉い!」、とか、「ああいう人達と比べると、自分も、結構、いい生活をしているんだ!」、などと、ほぼ反射的に思い込んでしまうようなところがあるので、その結果、これは、はっきり言って、申し訳ないのですが、普段の自分が、いかに、地味で、それほど豊かでもなく、また、不幸な生活(自分の正直な実感として、あまり幸福を感じていないような状態のこと)をしていたとしても、そうした人々を見るだけで、何となく、現在の自分の状況を正当化して、自分を納得させてしまうような、悪い意味での麻薬のような効果があった、ということなのです。

 このように、現在のような学校制度によって、弾かれてしまった人々というのは、その社会で、何の有効な言論の自由も、また、政治的な自由も行使しないまま、その後の長い人生を送ってゆくことになることが多いのですが、それだけではなく、そうした人々の存在というのが、また、その社会全体に対して、多くの人々の貧乏や不幸の正当化や標準化といった、非常に微妙な、悪い役割を果たすこともあるので、私は、現在の学校制度のように、単純に試験の成績によって、多くの人間の優劣を確定させてゆくような教育のあり方というのは、非常に問題が多いのではないか、というように考えております。

 

 続く・・・

 

Cecye(セスィエ)

2010年12月18日 9:28 PM, 宗教、道徳 / 教育 / 知恵、正しさ



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