どこかで、試験教による拡大ループの罠から、脱するような具体的な方策をとれないと、そのうち、国家規模の経済破綻か、軍事的混乱に陥る可能性があるので、注意が必要である
そうすると、もう一度、ここで、因果関係を、簡単に整理し直すと、
1、試験を行うために、国家が、ある程度、権威を持たせた試験の運営団体を作る
2、その試験の運営団体が、だんだん、どこからも批判されないような、一種の利権がらみの小さな密室政治みたいな所になってゆく
3、その利権の機密保持と拡大のために、そうした試験の運営団体は、いつの間にか、普通の人々からは、全くよく分からないような形の、小さな世襲制の特権階級の集団に変わってゆく
4、それと同時に、そうした試験の権威付けのために、学校制度が、知識偏重や規則重視のガチガチの硬直化した制度になってゆく
5、試験制度による利権の、さらなる拡大のために、何でもかんでも、いろいろな理由で、試験にしては、そうした試験の数を、どんどん増やしてゆく、というような、一種の「試験教」のようなものが、やがて、その国を、一世風靡するような時代に、突入するようになってゆく
ということであるのですが、ここまでの説明からも、ある程度、推測できるように、実は、民主主義の国であるにも関わらず、こうした試験というものに、あまりにも強い権威のようなものを持たせておくと、いつの間にか、その国が、隅から隅まで、だんだん、試験だらけになってゆくと同時に、そうした試験を通った人と、通っていない人を、国家が、一種の身分制のように、はっきりと区別して扱うようになってゆく、ということなのですが、実は、こうした試験教の拡大ループに入ってしまった国というのは、
前に述べたような経緯で、その国が、完全に経済破綻するか、もしくは、外国の侵略や地方勢力の反乱によって、その制度が、完全に取り除かれるまで、こうした試験教による拡大ループの罠から、逃れられた国というのは、現在までの地球の歴史では、実は、ただの一つもなかった、ということなのです。
そうすると、現在の日本人が、選択すべき選択肢は、このまま、今のままの制度を続けて、いつか、そのうち、来る来ると言われながら、まだ来ていない、国家の経済破綻や、軍事的混乱を経験するか、それとも、今のうちに、現在のような試験制度は、できるだけ、少しずつ、なくして、実質的に、ほとんど、廃止するか(合格させたり、落としたりするための差別のための試験制度ではなく、それぞれの人が、最も自分が望むような知識や技能の修得のための、単なる一つの機会程度の社会的な位置づけにしてゆくこと)、のいずれかの道を選ばなくてはならない、ということなのですが、現在のところ、こうした日本の学校制度や試験制度というのは、その利権や特権を享受している人々にとっては、絶対に、誰も批判も追求もしてこないような、最後の利権の楽園になっているようなので、これは、多分、絶対に変えさせない、というような、非常に巧妙な政治工作をしてくる可能性が高いので、私の感覚だと、今のままだと、「多分、全然、変わらないのかな・・・」、というような感想を、率直に持っています。
学校や試験の制度は、現代のような宗教弱体化の時代における、新たな疑似宗教のような役割を担いつつあるが、一般大衆が、直接、選んだわけでもないような、少数の人々による利権目的の密室運営ができる点で、非常に問題の多い制度でもある
とにかく、ここで言うべき、最後の結論は、現在のような試験制度というのは、まず第一には、多くの人々が、ほぼ無前提に、絶対に正しいものであると、深く信じ込んでいる、ということと、第二には、それを批判したり、追求したりできるような外部の機関や人間が、ほとんど全くない、ということと、それから、第三には、これは、あくまで、この世的な仕事や生活の面において、ということではあるのですが、そうした試験に通った人は、天国のような世界に行き、また、そうした試験を通らなかった人は、地獄のような世界に行く、というような点から、私は、はっきり言って、こうした試験というのは、現代のような宗教弱体化の時代における、新たな「疑似宗教」のような役割を担っているのではないか、というように、率直に感じているのですが、しかしながら、先ほど述べたことからも、はっきりと分かるように、こうした試験制度というのは、気をつけておかないと、どこの誰とも、よく分からないような人達による、非常に汚い利権まみれの密室政治のようなものに、すぐに変貌してしまうような、非常に難しい要素を持っている、ということは、現在のような民主主義の時代に生きる、賢い国民としては、本当は、よくよく知っておかなくてはならない、非常に重要な市民の教養なのではないか、というように、私は、率直に考えております。
Cecye(セスィエ)
2010年12月10日 9:25 PM, 教育