どんなに信頼のおける宗教や思想団体であったとしても、時折、その経理や活動の実態について、第三者的立場で、厳しくチェックし直す必要がある
そうすると、こうした客観的な状況を踏まえた上で、そうした宗教や思想に入っている人間というのは、一体、どのような点に注意しながら、そうした宗教や思想の活動を行ってゆけばよいのか、というと、大体、以下のような二つの内容になるのではないか、と私は考えています。
①一定期間ごとに、自分が所属している宗教や思想団体の経理状況を、まるで外部の第三者のような心づもりで、厳しくチェックする必要がある
まず第一には、自分が、もし、何らかの宗教や思想に入ることにした場合には、一定期間ごとに、必ず、そうした宗教や思想団体の収入や支出の細かな内訳について、いつも自分が持っているような、その宗教や思想団体に対する信仰や信用というものは、いったん、全部、置いて、まるで、外部の人間にでもなったつもりで、客観的に、厳しく目を通して、そして、「この程度の収入と支出の内訳や、あるいは、教祖や幹部の給与なら、自分としても、十分に納得できるけれども、ちょっと、この経営の内訳では、怪しいのではないか」、とか、「自分としては、全く納得がいかない」、というような場合には、その時点で、再度、現在、自分が入っている宗教や思想団体への所属というものは、もう一度、ゼロから考え直した方が、賢明である、ということです。
②愛や理想を尊ぶ、人間の性質が悪用されて、いつの間にか、誰かの操り人形にされないためには、時折、自分の所属している宗教や思想団体の活動を、客観的にチェックし直す必要がある
第二には、これは、はっきり言って、申し訳ないのですが、そうした宗教や思想では、よく「無償の愛」、とか、「愛や慈悲の心」、とか、「自己犠牲の精神」、とか、「社会への奉仕」、というのが、強調されることが、非常に多いのですが、それが、いつの間にか、本当は、自分が意図しているような、宗教的、あるいは、社会的な理想の実現のためではなく、そうではなく、単なる一個人や一団体の利益のために、悪用されていないかどうか、ということを、時折、厳しく、チェックし直すことが、重要である、ということです。
確かに、人間には、「他の人々や生き物達に、深い愛の心で、接したい」、とか、それから、広くは、「社会や人類全体のために、ある程度、自分を犠牲にしてでも、奉仕してみたい」、というような、強い欲求がある、というのは、事実なのですが、ところが、そうした人間の性質を悪用すると、一部の「神」や「天使」と名乗るような人達によって、たくさんの人達が、まるで、一種の精神的な奴隷のように、こき使われるようなことになったり、あるいは、いつの間にか、自分独自の個性や自由意思というものを全くなくされてしまい、誰かの意のままに操られるようになってしまうようなことすら、この世界では、実際、たくさん起きていた、ということなのです。
それゆえ、私は、そうした宗教や思想団体の活動の中には、確かに、非常に尊く、大切なものもある、ということは、十分に認めるのですが、だからといって、この世的なメリットとデメリットの視点、特に、お金の収入や支出に関する視点、つまり、「たとえ、どんなに立派な宗教や思想団体であっても、この世界では、お金がなければ、全く活動することができないので、お金の支出入に関する理解と協力は、非常に重要だ」、とか、あるいは、「どんなに信用のおける組織であっても、たくさんのお金が動く所には、たいてい、それなりの不正や横領が、付き物であるので、それには、それなりの用心や対処をすることが、重要である」、というような見方を持つことも、時には、非常に重要なのではないか、というように、率直に考えています。
時には、その真理の正邪だけでなく、その真理によって、一体、誰が得をして、誰が損をするのか、というような、その真理に関する利害関係についても、冷静にチェックしたり、考え直す必要がある
このように、一般に、「真理」というと、たいてい、それが、本当に合っているのか、それとも、間違っているのか、というような、その真理の正邪のみに、多くの人々の関心が集まるような傾向があるのですが、時には、そうした真理の正邪というような視点から離れて、その真理によって、一体、誰が得をして、一体、誰が損をするのか、というような、その真理によるメリットとデメリットの関係についても、いったん、そうした宗教や思想団体に対する信仰や信用というものからは、完全に離れて、まるで、他人事のような態度で、客観的にチェックしたり、考え直してみるのも、本当は、人間として、より良く生きてゆくためには、非常に重要なのではないか、というように、私は考えております。
続かない・・・(おしまい)
Cecye(セスィエ)