釈迦の教えのバラエティーの豊かさについて
古代インドで、釈迦が教えを説き始めた頃、かなり単純にまとめてしまうと、釈迦のもとに集まってくる人々の中には、当時のインドの辺りの宗教哲学をかなり極めた、現代風に言うと、まるで宗教学が専門の大学教授のような人々から、また当時の霊的な修行は、もう一通り、ある程度しっかりこなしたことがあるような、現代風に言うと、プロの修行者のような人々や、それから逆にそうした宗教哲学や霊的な修行なんて、ほとんど知らないし、やったこともない、現代風に言うと、ほぼ無学文盲と言ってもよいような人々まで、本当にかなりピンからキリまで、様々なタイプの人々がいたようです。
そうすると釈迦のもとにきた段階で、もうすでにかなりの宗教的な知識のあった人々に対する教えは、たいてい、かなり高度な専門用語を駆使した、ちょっと理屈をこねくり回したような内容になることが多かったでしょうし(当時の釈迦は、あまりにも悟りに直接関係ない質問には答えなかった、というような記録もあるようです)、また釈迦のもとに来た段階で、かなりの霊的な修行を積み重ねていたような人々に対する教えは、いろいろと深く考えさせたり、かなり強い求道心や集中力や忍耐力がいるような内容になることが多かったでしょうし、さらには、全くそうしたタイプではない、ほぼ無学文盲と言ってもよいような人々に対する教えは、たいてい、たくさんのことを覚えたり、難しく考えたり、あまり厳しい修行を必要としないようなタイプの、要するに一見、誰にでも、すぐできそうな、かなり簡単でわかりやすく、また単純な繰り返しの多い修行の内容になることが多かったのではないか、というように思われます。
ですので、ここで、かなり簡単に言い切ってしまうと、現代人から見ると、一見、仏教の教えは、かなり難しそうなので、仏教的な悟りを得るなんて、もう絶対に無理なのではないか、と考える人が多いとは思うのですが、ただ当時の釈迦の教えでは、頭脳明晰な人には、そういう人向けの悟りの方法を、また厳しい修行が好きな人には、そういう人向けの悟りの方法を、それから、そのどちらでもない、ほぼ無学文盲に近い人には、やはり、そうした人向けの悟りの方法を、などというように、当時の釈迦のもとに集まってきた、それぞれの人の好みや性質や能力に最も見合った形の悟りに至るための方法を教えていたのではないか、ということなのです。
Cecye(セスィエ)
2021年5月27日 9:04 PM, インド思想、ヒンドゥー教 / 中国思想 / 仏教 / 宗教、道徳 / 瞑想 / 知恵、正しさ