二つめは、これは少し不思議な話になるのですが、人間のような知的生物には少し不思議な性質があって、それはある程度、知的に発達すると、どうも自分自身の存在と、自分がある程度深く知るようになった存在との違いが、この世的にはともかくとして、少なくとも霊的というか、精神的には、あまりよくわからなくなってくるところがあるようなのです。
これは少しわかりづらいと思うので、例をあげて説明したいと思うのですが、例えば、誰でも親になると、いつも接している子供を、まるで自分自身の一部のように感じて、こまめに世話したり、深い愛情を感じたりすることが多いのですが、ところが不思議なことに、何らかの事情で、いつも一緒にいられなくなったり、全然別に暮らすようになった子供に対しては、少し努力しないと、そう簡単には自分に身近な存在とは感じられずに、なかなか、こまめに世話できなくなったり、すぐに深い愛情を持てなくなったりするようなことが、世の中では、結構数多くあったりするようなのです。
この違いを冷静に考えてゆくと、少し変わった人間の性質に気づくのですが、要するに人間というのは、いつも自分のそばにいるような身近な存在に対しては、いつも世話したくなるとか、深い愛情を感じてしまうというよりも、まるで自分自身の体や心の一部のように感じて、いろいろなことをしたり、強いシンパシーや愛情を感じるようなところがあるのではないか、ということなのです。
ところが、たとえ自分の血を分けた自分の子供のような存在であったとしても、何らかの事情で、いつも自分の側にいられないことが非常に長く続いた場合には、単にすぐに世話したいとか、深い愛情を感じられないというよりも、そう簡単には、自分自身の体や心の一部というような感覚が持てなくなってしまうために、すぐにうまく世話できなくなったり、それほど強い愛情を持てなくなってしまうようなところがあるのではないか、ということなのです。
つまり、人間というのは、普段、自分の身近に見聞きできるような人間や生き物に対しては(あと物に対しても)、わりと簡単に愛情を感じたり、「何かしてあげたい」というような感覚を持ちやすいところがあるのですが、そうではなく、その人にとって、あまり身近でない人間や生き物に関しては(あと物に関しても)、少し努力したり、慣れるための時間がないと、そう簡単には深い愛情を感じたり、「何かしてあげたい」とは、なかなか思えないようなところがあるのではないか、ということなのです。
そうすると、ここで少し不思議な結論に到達するのですが、人間のような知的生物というのは、わりと単純な生物の欲求のあり方とは少し違って、それぞれの人がよく知るようになった人々や生き物達に関しては、そうした知的活動の結果、まるで自分自身の体や心の一部のように感じて、そうした人々や生き物達の生理的な欲求を、まるで自分自身の生理的な欲求のように感じてしまうというような、もっとはっきり言うと、一つ一つの生物という個の枠を超えた、超生物的な欲求を持つようになるというような、とても不思議な性質があるのではないか、ということなのです。
Cecye(セスィエ)
2017年2月17日 9:03 PM, 知恵、正しさ