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知ることと人間の欲求の関係について Part 3

3、人間には、「何かを知りたい」という知的欲求とほぼ同じくらいの強さで、自分としては十分にわかり、飽きてしまったことは、「もう知りたくない」という反知的欲求のようなものがある

 三つめは、これは少しややこしい話になるのですが、人間には、「何かを知りたい」という知的欲求とほぼ同じくらいの強さで、「ある程度わかったら、もう知りたくない」とか、「全然わからないことは、もう知りたいとも思わない」というような「反知的欲求」のようなものを持っているところがあるということです。

 これも先ほどと同じように小さな子供を例にあげると、例えば、小さな子供が、自分のそばにあったボールを見つけて、それをつかんだり、投げたりして、ある程度十分に遊んで、「ああ、ボールというのは、こんなものか」ということが、わかったような気分になると、たいてい、その後は再び何らかのきっかけで、そうしたボールに興味を持つようになるまでは、同じボールを見ても全然見向きもせずに、何か他にもっと面白いものはないかと、一生懸命探し続けていることが多いものです。

 ところが、その後、他の人が楽しそうにボール遊びをしているところを見て、自分も同じようにボール遊びがしてみたいと強く思った場合には、また前と同じようにボールに触って、他の人に投げたり、逆に受け取ったりして、いろいろなことをして遊ぶようになるのですが、さらにその後、どこかの段階で飽きてしまって、もうこれ以上、あまり楽しいことはないと判断すると、またボールはどこかに投げ出して、何か別の物に興味を持つようになるわけです。

 つまり、人間というのは、確かに「何かを知りたい」という強い知的欲求を持つ生き物ではあるが、それと同時に、そうした「何かを知りたい」という強い知的欲求があまり満たされない状況が続いたり、あるいは逆に、もう十分に満たされたと判断した場合には、もっと別のさらに新しい何かを知るために、次から次へと自分の知的欲求を向け続けてゆくような、言ってみれば、ちょっと気分屋というか、ころころと気持ちを変え続けていってしまうような、少し飽きっぽいところもあるということが言えるようです。

 

 続く・・・

 

Cecye(セスィエ)

2017年1月27日 9:03 PM, 知恵、正しさ



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