そうすると、現在のところ、多くの人々が下した、こうした「わかる」ことと「楽しむ」ことの関係というのは、次のような感じになっているのではないか、と思われます。
まず一つめは、どう考えてみても人間が生きるためには、何らかの労働が必要であると思われるので、たいてい人間の社会では、子供が生まれると、ある程度は自由に楽しく遊ばせているのですが、一定の年齢になると、少しずつ自分や家族の生活を支えるための労働に従事したり、そうした労働に従事するための知識や技能を学んでゆくことが多いということです。
二つめは、これは近代以降の学校教育が発達した後の社会の話になるのですが、要するにそうした社会では、もはや前近代社会のように生まれ持った身分や家族ごとに、あらかじめ決まっている労働をするのではなく、学校に通って、かなり高度な知識や技能を学ばないと、その後の市民生活すら、なかなか、うまくおぼつかないようなところがあるので、それゆえ一定の年齢になると、みんな学校に通って、ある意味、ほぼ強制的にその国の市民として必要な知識や技能の習得を図るようになるわけです。
そうすると、当然のことですが、一つめのケースにしても、二つめのケースにしても、そうした知識や技能の習得に関しては、はっきり言うと本心として、あまりやる気がないというか、あまり面白みを感じられないような人々が必ず一定人数はいるものなので、そうした人々は、仕事を怠けたり、勉強を怠けたりしながら、その人自身として、最も楽しいと思えるようなことに時間を使うようになりがちだったのではないか、と思われます。
Cecye(セスィエ)
2016年12月8日 9:03 PM, 知恵、正しさ