また、「神仏」のイメージというのも結構違っていることが多いのですが、例えば、昔から自然が厳しく、争いの多かった地域では、わりと厳格で公正な神仏のイメージになりがちなのですが、それが気候が温暖な自然の豊かな地域では、わりと寛容な優しい神仏のイメージになったり、それから原始的な生活をしている人々の間では、わりと単純な性格で(つまり喜怒哀楽が激しい)、戦闘的で呪詛(じゅそ)の力が強い神仏のイメージが好まれていたり、さらには学問や科学技術の発達した物質的に豊かな地域では、理知的で豊かなイメージの神仏が好まれたりするなどというように、多くの人々が一見、何となく、ほぼ同じようなイメージで考えがちな神仏のイメージであっても、結構それぞれの国や民族や地域の特色によって、かなり大きな違いがあったりするものなのです(実際、同じ宗教や宗派であっても、国や民族や地域の違いによって、かなり大きな違いがあることがあります)。
さらに現在も世界中で、よく問題になりがちな戦争や軍事の話になると、例えば、現代でも、古代や中世の感覚が根強い人々の間では、もう単純に戦争で勝つことが良いことで、勇敢に戦って死んだ人を褒め称えるような戦争賛美の感覚を持っていることが多いのですが、それが近現代において、その国の軍事力がほぼ壊滅して、ほとんど廃墟になるような形で戦争にボロ負けしたような国や、過去の侵略や残虐行為が散々非難され続けているような国の人々の戦争のイメージになると、再び絶対に繰り返してはならない独裁者や軍人達の暴走であるとか、二度と繰り返してはならない非人道的な行為や悲惨な悲劇のような感覚で捉えられていることが多いようです。
ところが、近現代において、厳しい戦争を勝ち抜いて、多くの人々の代表が政治を行う共和国の建設を果たした国であるとか、特に第二次世界大戦において、最初は苦戦したにも関わらず、勇敢に侵略者や独裁者と戦い、戦後、国連を結成して、今日の世界平和の基礎を作り、たくさんの平和に繁栄する国々の礎を築いた国々の人々の戦争のイメージになると、世界平和や国際秩序維持のための正義の戦争がある一方で、一部の政府の人々が勝手に始めて、勝手に拡大し続けてゆくような、訳のわからない戦争もあるなどというように、結構、ドラスチックな感覚で戦争を捉えていることが多いようです。
このように、たとえ一見、ほぼ同じような物事についての言葉であっても、それぞれの人の生まれた国や民族や地域の違いによって、実際には、かなり大きく意味やニュアンスが違ってしまうことがあるようです。
Cecye(セスィエ)