現実生活の実感を伴った正しい言葉の意味や使い方を無視して、あまりに非現実的な美しい言葉の響きや文字やイメージの世界にのみ深く傾倒しすぎてしまうと、死後、長らく五次元以上の本当の天国の世界には行けなくなることがあるので、注意が必要である
これは先ほどの文章の補足的な内容の話になるのですが、地球の宗教では、「神は言葉で世界を造った」とか、「言霊の幸はふ国」などというように結構、言葉の力を重要視するようなところがあるのですが、実は地上の世界で亡くなった後、この物質世界と非常によく似た幽界や、あまり良いとは言えないような様々な異次元世界の領域に入ったまま、なかなか出てこれなくなってしまった人々に、ほぼ共通するような一つの性質があるのですが、それが一見美しい表現や響きなのだが、実際の中身がすっからかんというか、要するに自分や他の人々の実際の体験を全く伴っていないような、うわべだけの言葉の世界に酔いしれてしまったような人々が、肉体的に亡くなった後、数十年経っても、また数百年経っても、そうした世界から、なかなか出てこれなくなりやすいというような、ほぼ共通する性質があるのです。
※昔は、現代のような漫画やアニメや映画や小説のようなものがなかったので、そうした昔の時代には、現実の厳しい大変な生活を忘れたくて、宗教や神話の世界の美しい表現や言葉の世界の没頭していたのかもしれません。
少しわかりづらいかもしれないので、もう少し具体的に言うと、例えば、「神が言葉で世界を造った」というのであれば、もう少し具体的に神が「光」と言ったら、ピカッと光が現れたというようなことをそのままストレートに信じ込み過ぎているような人の場合には、はっきり言うと、そうした過程で、その人の精神的な柔軟性のようなものがほぼ完全になくなってしまっているようなところがあるので、仮に横から「それなら、君が『光』って言っても光が出てくるの?」とか、「それじゃあ、神様は、いろいろな動物を作る時には、ライオン、猫、牛・・・のような感じで、全部名前を言って作っていったの?」とか、「それは、何語のどんな発音だったの?」などと言われると、すぐに反論に詰まってしまうように思われるのですが、世界の宗教だと、そうした所も、もう少し詳しく説明しているものがあって、「神が深い瞑想状態に入って、光のような存在を強くイメージすると、やがて、光という存在が現れた」などというように、現代人としては、もっとわかりやすい形で説明しているものもあるわけです。
ところが、こうした際に「いや『光』って、言えばいいんだよ」とか、「Lightだよ。Light」などというように、よく考えてみれば、昔の聖書が書かれた時代とは全く違う言葉で話している現代の人々が、いったいどういう根拠で「光」、「光」と言っているのかすら、よくわからないような状況であるにも関わらず、そうした言葉の文字や響きにばかり、あまりにも強く固執しすぎてしまうと、その人の意識の状態が、その人自身やその人の周りの世界の様子にかなり強く反映される幽界や異次元世界のような所にいる場合には、はっきり言って、その後、かなりショッキングな出来事でも起きない限りは、そうした幽界や異次元世界から、なかなか出れなくなってしまうことがあるということなのです。
そうした点で現実生活での実際の感覚を無視して、あまりにも非現実的な美しい言葉の響きや文字やイメージに惹かれて、そうした世界に深く傾倒してしまった場合には、残念ながら、その人が亡くなった後には、本当の天国ではなく、この地上の世界とほとんどそっくりの幽界や、あるいは本物の天国ではない偽光界や、ほとんど地獄のような世界に行ったまま、なかなか出てこれなくなってしまうような状況に陥ることがあるので、非常に注意が必要なところがあるようです。
Cecye(セスィエ)
2016年3月17日 9:03 PM, イスラム教 / キリスト教 / スピリチュアリズム、霊界 / 中国思想 / 仏教 / 宗教、道徳 / 知恵、正しさ / 神道