③たとえ、それぞれの人が到達できるレベルに大きな違いがあったとしても、霊的には、それぞれの人が積み重ねた努力そのものは立派な成功であり、大きな収穫になっているものなのである
三つめは、これは世間でも、よく言われていることになるのですが、「習うより慣れろ」という言葉の通り、客観的に見る限りは、最初から完璧性を目指して、一つ一つのことを神経質に努力し続けるよりも、とりあえず最初は大まかでもいいから、とにかく実際にやってみて、その上で良い所は残し、ダメな所は、その時々において、こまめに直してゆくとか、とにかく、その時点で自分にできるレベルのことを淡々と楽しみながら、一つ一つ積み重ねてゆく方が、長い目で見ると上達してゆきやすいようなところがあるということです。
ところが、その後は、人によって、かなり大きな差があって、つまり、そうした形で何らかの技能がある程度、上達してゆくと、その時点で、「まあ、この程度でいいだろう」という具合に、わりと単純に満足できてしまうようなタイプの人と、そうではなく、「いや、こうやれば、もっとうまく出来るのではないか」とか、「自分としては、これでは全然満足できないから、もっと上の何かを目指してみたい」とか、「よく分からないけれど、もっとすごい何かが出来る気がするので、いろいろ試してみたくなってくる」などというように、もっと高度のレベルを目指すようなタイプの人で、結構大きな差が出来てくるようなところがあるのです。
ただ、現実には、そのようにして、もっと高度なレベルを目指していったとしても、その後は人により、いろいろで中級者レベルぐらいまで行った辺りで、いろいろな経緯で自分の才能や能力の限界を見定めるような状況になったり、また自分自身としては、それなりの満足を得て、他の分野に主要な関心が移るような状況になってゆくこともあれば、さらにより上のレベルを目指して、どんどん努力し続けてゆく人もいるのですが、要は、どの人であっても、それが、いったい、どのレベルの段階であるかは、なかなかよく分からないにしても、その人なりに一定の満足が得られる、あるいは、一定の評価が得られる段階にたどり着くまで、行ける所まで、どんどんと続けてゆくようになってゆきます。
そうすると、ここでは、いったい、どのようなことが言えるのか、というと、要するによほどの天才か、幸運に恵まれた人物でもない限りは、そうした技能のようなものをいくら究めていったとしても、世間で広く知られるような、ものすごい実績や評価や名声など得られるわけではないので、それが人により、いったい、どの程度のレベルなのか、というのは、最初の段階では、なかなか分からないことも多いのですが、ただ、はっきり言えることは、そうした技能の上達のために、それぞれの個人が一つ一つ積み重ねていった努力そのものは、それが、どの程度のレベルであったとしても、霊的に見た場合には、その人個人としては立派な成功であり、大きな収穫であったというように判断してよいのではないか、ということなのです。
Cecye(セスィエ)