時々、宗教の世界で、疑う心の危険性が説かれることがあるので、今回は、そうした疑問について述べてみたいと思います。
まず霊的には、心の穏やかさや平安さを維持する上で、あまりにも強い猜疑心(さいぎしん)や、他の人へのやっかみや妬みや怒りの心が、かなりマイナスになるのは、確かに事実です(参考1)。
ですが、そうした心のいらだちや波立ちを伴わないような健全な意味での「疑う心」、要するに冷静に怖れずに、真実を追い求めるような態度は、現代人にとって、非常に大切な人間性の一つになるものと思われます。
つまり、学習や仕事や生活の上で心配になったことは、何らかの手段でしっかり調べ直して、確かめるようなことは、日常生活を送る上でとても大切でしょうし、また、宗教的真理や社会的な常識と考えられていることであっても、科学的な調査研究や芸術的創造や商品開発のために、あえて何らかの疑問を持って、再度、いろいろと調べ直してみたり、新しい仮説を立ててみたり、いろいろな試行錯誤を怖れずにやってみることは、とても大切なのではないか、ということなのです。
これは霊的なことにも、ほぼ同じようなことが言えるので、時折、宗教の世界では、疑うことを、最低の悪や悪魔や地獄に直結する行為として取り扱うこともあるのですが、霊的には、これは間違いで、本当は霊的なことであっても、真実であれば、基本的に何らかの正しい霊的なプロセスを踏めば、誰でも再確認できるような客観的事実であるはずですし(特に少し前までは、物質世界に近い幽界が、かなり混乱した世界であったのは事実なのですが・・・)、また逆に言うと、そうした再確認のプロセスをすべて否定して、「疑うこと自体が罪である」とか、「疑う人は、すべて地獄に堕ちる」というような宗教的な話には、かなり問題があるのではないか、と思われます(参考2)。
続く・・・
Cecye(セスィエ)