②西洋系の宗教での神仏と人間との信用関係について
第二には、これは多少、ややこしい話になるのですが、それでは、西洋系の宗教で、よく説かれている「契約説」的な内容、つまり、神仏が人間に対して、「こうしたことさえ、しっかりやってくれるのであれば、あなた達を幸せにできるし、また来世も天国の世界に導いてあげられるだろう」というような内容が、かなり明確になっている場合はどうなのか、ということなのですが、こうした、言ってみれば、神仏と人間との契約関係(つまり、一種の宗教契約のようなもの)上の条件を、人間の側が、しっかり満たしているのであれば、その宗教の神仏が、かなりしっかりした存在である場合には、おそらく、かなりの確率で、そうした人間の救済は保証されるのでしょうが、ところが、ここで思いもしないような第三者的な問題が生じてくるのです。
それは、いったい何なのか、というと、主要な論点は二つになるのですが、要するに、その宗教が古いタイプのものである場合、その神仏と人間との契約内容は、本当に正しい、絶対に大丈夫なものであったのか、という問題と、もう一つの問題は、それでは、もし、そうした神仏と人間との契約関係が、正当なものであったとしたら、それは、いったいどの程度の範囲内まで有効なのか、ということが、非常に問題になってくるようなところがあるのです。
つまり、例えば、本人としては、本当に全く思いもしないような、ちょっとした過失をしてしまったが、その場合、どの程度の罪とされて、どうした手続きで許されるのかとか、どう考えてみても、自分の過失とは思われない内容で、自分や自分の家族が、何らかのトラブルに巻き込まれた場合、いったいどのような手続きで、そうしたトラブルを解決することができるのか、ということが、実際、結構、切実な問題になってくることが多いのです。
そうすると、特に東洋の人々から見ると、少し前の時代までの、そうした契約思想に基づくキリスト教やユダヤ教やイスラム教のような宗教は、いっけん、かなり厳しい戒律や罰則があるように感じられるのですが、ところが、東洋人であっても、西洋人であっても、基本は同じ人間であるので、実際には、そうした契約説に基づくような宗教であっても、よくよく調べてみると、あっちにもこっちにも、いろいろな抜け穴や融通を効かすための創意工夫が、たくさんあるようになっているので(これは、決して悪い意味ではないのですが・・・)、本当は、そうした契約説的な宗教を信じているからといって、多くの人々が、本当に神仏の要求する基準を完全に満たしているかどうかというのは、かなり曖昧なところがあるものなのです。
③神仏と人間の間の信用関係の判断について
さて、さらに三つめは、これは、さらにちょっとややこしい問題になるのですが、そうすると実は、神仏と人間との間の信用関係、あるいは、そうした信用関係が、もっと明確になった契約関係の中で、人間の側が、最も気をつけなくてはならないのは、いったい何なのか、ということが問題になってくるのですが、これに関しては、だいたい二つのことが言えます。
一つめは、これは考えてみれば、当然のことなのですが、そもそもの宗教の目的から考えてみると、単純に考えて、とりあえず、この世的に見て、それなりの精神的幸せと物質的幸せが得られているのであれば、おそらく、神仏の覚えも、めでたいことが想像されるので、神仏と人間との間の信頼関係は、ある程度、良しと判断すればよいのではないか、ということです。
二つめには、ところが、人間の人生や社会の動向では、結構、思いもしないような、とんでもない災害やトラブルに巻き込まれることもあるので、そうしたことが起きた際には、やはり、ある程度、もう一度、神仏の意思を汲(く)み直すような努力をしてみるとか、人間の側に何らかの改善点や反省点がないか、考え直すような態度が、どうしても必要になってくるのではないか、ということです。
こうした目で見ると、これは、とても不思議な話になるのですが、特に目に見えない神仏と人間との間の信用関係、あるいは、それが、もっと明確になった契約関係の有効性を再確認する際には、今述べたような基準で、現在の自分の人生や社会の動向の状態の良し悪しについて、ある程度、客観的な態度で見直してみるような姿勢が、とても大切なのではないか、ということです。
Cecye(セスィエ)