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「愛」について Part 5

愛の罠に陥らないための四つの対策について

 さて、それでは、こうした愛の罠に陥らないために私達は、いったい、どうすればよいのか、というと、これははっきり言って、自分自身の中の冷静な理性と、強い精神衝動との間の戦い、というか、ある種のバランス感覚が問題になってくるので、かなり難しいところがあるのですが、要約すると、だいたい次のような四つのことが言えます。

 まず第一には、これは現在、並行して述べている幼少時の過ごし方とも大いに関係があるのですが、とにもかくにも子供時代において、日頃から親や教師に「あなたは、今のままの自分でも十分に素晴らしいのですよ」とか、「あなたは、元々素晴らしい人間なのですよ」などという具合に多少、いろいろと大変なことがあったとしても、基本的には十分に愛情をかけて、育てられ、また自分自身の自我、というか、自信というものをある程度、十分に確立できた人は、そうした状況になりづらいということです。

 ですから現時点で、あまりそうした感覚の少ない人は、何らかの方法で自分自身の中の愛の原点や、強い自信を見つけ出すような努力や工夫が必要なのではないか、ということです。

 第二には、他の人から一方的に話を聞くだけではなく、他の人に対しても、ある程度自信をもって、自分の意見や考え方を伝えることができて、お互いに深く理解し合うようなコミュニケーションがうまい人は、そうした愛の罠には陥りづらい、という特徴があります(逆に自分の中だけで、どんどん世界が膨らんでしまい、相手の生の声を聞けない人は、そういう状況に陥りやすいです)。

 ですから、もし現時点で、そうしたことに苦手意識のある人は、何らかの形で、もう少し他の人々と気軽にコミュニケーションするための、ちょっとした努力や工夫をしてみる必要があるということです。

 第三には、これは少し変わった考え方になるのですが、わりとねちょねちょとした感じの「ああだと思えば、今度は、こうだとも思う」というようなタイプの人は、こうしたぐるぐる回りの精神状態になりやすいので、そうした人は意図的に、もう少しサバサバした言動を心掛けると共に、できれば、「あれこれ考えるよりかは、ちょっとでよいから、とにかく、サッと行動してみてから考えよう」などという具合に、もう少し、あまり深くダラダラと考えない行動主義の人格に変更する必要があるということです。

 第四には、これは少し変わった考え方になるのですが、そうした愛のぐるぐる思考のようなものに陥りやすい人は、少し自分の交友関係を広げて、できれば、もう少しドライで、少々何か問題があっても、「そういう場合は、誰でもそうなるよ。そんなことで、うじうじしているよりかは、サッサと打開策を考えよう」とか、「君のやるべきことはしっかりやっていて、こうなったんだから、これは君の責任とは言えないな。だけど今すぐ、今後の改善策を考えて、実行してみよう」などというようなタイプの、わりと何でもサバサバと理性的に考えて、行動するようなタイプの友人を持つことです。

 それから、そうした場合には、思いきって、日頃から、「これだけは自分には無理だ。絶対に出来ない」などと心から思い込んでいるようなことに対して、「えいっ!」と踏ん張って、積極的にトライしてみることも、とても効果があります。

 ただし、そうしたケースでは、たいてい何らかのリスクがあって、先延ばしの話になっていたケースが多いと思われるので、最初の段階から何らかのリスク対策、例えば、「とりあえず、いつになったらやめる」というような明確な期限と、「ここまで大変になったら、すぐにやめる」というような自分としての限界レベルの設定(こういうケースの場合は、大きな挫折ではなく、単なる試験的な行動なので、別にパッと止めてもいいんです)と、それからもし、そうした時の自分の意思決定が、あまり信頼できない場合には、できれば、自分の信頼できる親や兄弟姉妹や友人などに、そのことをしっかり話した上で、「自分が大変そうになったら、すぐにとめてくれ」とよく頼んだ上で、そうしたものに思いきって、トライしてみるということが、とても大切になるのではないか、ということです。

 よくある世間の話では、こうした場合、ぐだぐだと悩み続けるよりも、自分自身の体験による効果は遥かに絶大なので、たいてい十年の悩みは、一ヶ月も経たないうちに解決し(というか、「こんなものか・・・」と自分自身が深く納得できる)、また一年の悩みも、ほんの数日で解決することが多いというようなことが言えるようなのですが、それはともかくとして、要は、あまりぐだぐだと悩み続けるような状況が止まらない場合には、もう思い切って、何らかの行動をしてみた方が、ずっと良いことが多いようなのです。

 ただ、たいてい、そうしたものには、何らかのリスクが付き物なので、できれば、いつの間にか自分自身が、ミイラ取りがミイラになるような事態を避けるために、あらかじめ何も効果がない場合には、「いついつになったら、きっぱり止める」というような明確な期限と、それから「これくらい大変になったら、機械的にきっぱりやめる」というような自分としての明確な限界レベルを決めておいて、その上で自分として、「これなら行ける」と思うなら続ければよいし、そうではなく、「これは、やっぱり自分には無理だし、合わなかった」とか、「これでもう自分としては、十分満足した」と思えたら、サッサと止めるのが賢明なのではないか、と私は思います。

 このように愛の感覚というのは、確かにとてつもない崇高感や、誰かの役に立つことによる非常に大きな至福感や満足感を味わえるようなところがあるのですが、ただ少し間違えると、そうした愛の罠の中に落ちて、最初の愛の出発点からはかなりずれた、とんでもない世界に入ってしまうこともあるので、これには、とても注意が必要なのではないか、ということです。

 

 続く・・・

 

Cecye(セスィエ)

2012年11月27日 9:06 PM, 人生観、世界観 / 宗教、道徳 / 愛について / 成功論、繁栄論 / 知恵、正しさ



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