愛の罠に陥らないための四つの対策について
さて、それでは、こうした愛の罠に陥らないために、私達は、いったい、どうすればよいのか、というと、これは、はっきり言って、自分自身の中の冷静な理性と、強い精神衝動との間の戦い、というか、ある種のバランス感覚が問題になってくるので、かなり難しいところがあるのですが、要約すると、だいたい、次のような四つのことが言えます。
まず第一には、これは、現在、並行して述べている幼少時の過ごし方とも、大いに関係があるのですが、とにもかくにも、子供時代において、日頃から、親や教師に、「あなたは、今のままの自分でも、十分に素晴らしいのですよ」、とか、「あなたは、元々、素晴らしい人間なのですよ」、などという具合に、多少、いろいろと大変なことがあったとしても、基本的には、十分に愛情をかけて、育てられ、また、自分自身の自我、というか、自信というものを、ある程度、十分に確立できた人は、そうした状況になりづらい、ということです。
ですから、現時点で、あまり、そうした感覚の少ない人は、何らかの方法で、自分自身の中の愛の原点や、強い自信を見つけ出すような努力や工夫が必要なのではないか、ということです。
第二には、他の人から、一方的に話を聞くだけではなく、他の人に対しても、ある程度、自信をもって、自分の意見や考え方を伝えることができて、お互いに深く理解し合うようなコミュニケーションが、うまい人は、そうした愛の罠には、陥りづらい、という特徴があります(逆に、自分の中だけで、どんどん世界が膨らんでしまい、相手の生の声を聞けない人は、そういう状況に陥りやすいです)。
ですから、もし、現時点で、そうしたことに苦手意識のある人は、何らかの形で、もう少し、他の人々と気軽にコミュニケーションするための、ちょっとした努力や工夫をしてみる必要がある、ということです。
第三には、これは、少し変わった考え方になるのですが、わりと、ねちょねちょとした感じの、ああだと思えば、今度は、こうだとも思う、というようなタイプの人は、こうした、ぐるぐる回りの精神状態になりやすいので、そうした人は、意図的に、もう少しサバサバした言動を心掛けると共に、できれば、「あれこれ考えるよりかは、ちょっとで良いから、とにかく、サッと行動してみてから、考えよう」、などという具合に、もう少し、あまり深くダラダラと考えない、行動主義の人格に変更する必要がある、ということです。
第四には、これは、少し変わった考え方になるのですが、そうした愛のぐるぐる思考のようなものに陥りやすい人は、少し自分の交友関係を広げて、できれば、もう少しドライで、少々、何か問題があっても、「そういう場合は、誰でもそうなるよ。そんなことで、うじうじしているよりかは、サッサと打開策を考えよう」、とか、「君のやるべきことは、しっかりやっていて、こうなったんだから、これは、君の責任とは言えないな。だけど、今すぐ、今後の改善策を考えて、実行してみよう」、などというようなタイプの、わりと、何でもサバサバと理性的に考えて、行動するようなタイプの友人を持つことです。
それから、そうした場合には、思いきって、日頃から、「これだけは、自分には無理だ。絶対に出来ない」、などと心から思い込んでいるようなことに対して、「えいっ!」、と踏ん張って、積極的にトライしてみることも、とても効果があります。
ただし、そうしたケースでは、たいてい、何らかのリスクがあって、先延ばしの話になっていたケースが多いと思われるので、最初の段階から、何らかのリスク対策、例えば、「とりあえず、いつになったら、やめる」、というような明確な期限と、「ここまで、大変になったら、すぐにやめる」、というような、自分としての限界レベルの設定(こういうケースの場合は、大きな挫折ではなく、単なる試験的な行動なので、別に、パッと止めてもいいんです)と、それから、もし、そうした時の自分の意思決定が、あまり信頼できない場合には、できれば、自分の信頼できる親や兄弟姉妹や友人などに、そのことを、しっかり話した上で、「自分が大変そうになったら、すぐに、とめてくれ」、と、よく頼んだ上で、そうしたものに、思いきって、トライしてみる、ということが、とても大切になるのではないか、ということです。
よくある世間の話では、こうした場合、ぐだぐだと悩み続けるよりも、自分自身の体験による効果は、遥かに絶大なので、たいてい、十年の悩みは、一ヶ月も経たないうちに解決し(というか、「こんなものか・・・」、と、自分自身が、深く納得できる)、また、一年の悩みも、ほんの数日で解決することが多い、というようなことが言えるようなのですが、それは、ともかくとして、要は、あまり、ぐだぐだと悩み続けるような状況が止まらない場合には、もう思い切って、何らかの行動をしてみた方が、ずっと良いことが多いようなのです。
ただ、たいてい、そうしたものには、何らかのリスクが付き物なので、できれば、いつの間にか、自分自身が、ミイラ取りがミイラになるような事態を避けるために、あらかじめ、何も効果がない場合には、「いついつになったら、きっぱり止める」、というような明確な期限と、それから、「これくらい大変になったら、機械的に、きっぱりやめる」、というような、自分としての明確な限界レベルを決めておいて、その上で、自分として、「これなら行ける」、と思うなら、続ければよいし、そうではなく、「これは、やっぱり、自分には、無理だし、合わなかった」、とか、「もう、これで自分としては、十分、満足した」、と思えたら、サッサと止めるのが、賢明なのではないか、と私は思います。
このように、愛の感覚というのは、確かに、とてつもない崇高感や、誰かの役に立つことによる、非常に大きな至福感や満足感を味わえるようなところがあるのですが、ただ、少し間違えると、そうした愛の罠の中に落ちて、最初の愛の出発点からは、かなりずれた、とんでもない世界に入ってしまうこともあるので、これには、とても注意が必要なのではないか、ということです。
Cecye(セスィエ)
2012年11月27日 9:06 PM, 愛について