2、教育する側にとっての分かりやすさについて
まずは、教育する側にとっての分かりやすさについて、考えてみたいと思うのですが、だいたい、次のような二つのことが言えます。
①教育とは、何らかの専門的な知識や技術や、それに伴う経験や実績を有する教師が、それらを学生(生徒)に対して、うまく興味や関心を引き出しながら、相手の個性や能力やレベルに合わせて、いろいろな経験や実績を積ませながら教えてゆくものである
まず第一には、これは、あまり詳しく考えたことのある人が少ない話になるのかもしれないのですが、要するに誰かが、何かを他の人に教えようとしているということは、何らかの専門に関する知識や技術や、それに伴う、さまざまな経験や実績を積み重ねた人々が、そうした専門に関しては、全くの初心者、あるいは、ある程度のレベルの知識や技術や経験や実績のある人々に対して、そうした知識や技術や経験を伝えてゆくことであるのです。
それゆえ、そうした知識や技術や経験を伝えてゆくには、常にうまく相手の興味や関心を引き出しては、相手の個性や能力や、現在のレベルに応じた教え方をして、その上で、相手の熱意ややる気を引き出しつつ、それ相応の経験を積ませて、自信をつけさせたり、さらには、それ相応の実績を出させてあげる必要があるということになります。
そうすると、相手が全然、興味も関心もないことを一方的に教え込もうとしたり、また、相手の個性を無視しすぎたり、それから相手のレベルと全然違うような、とても難しいことを、いきなり初心者に押し付けようとしたり、あるいは、その反対にかなりの熟練者のような人に、あまりにも簡単なことを強要しようとしていると、もう途端に、そうした教師と学生(生徒)との関係というのは、全然、ダメなものになってしまいがちであったということなのです。
ですから、こうした教育に関しては、常に教師の側は、教える相手の立場に合わせて、時には、うまく興味や関心を引き出すようなことをしたり、あるいは、相手の個性や能力やレベル相応に、さまざまな経験や実績をうまく積ませたりしながら、そうしたそれぞれの教育において、元々、目標とされているような、ある一定のレベルまで引き上げてゆかなくてはならないようなところがあったということです。
※これは、決して個人個人の独自の個性や才能を否定するような意味ではありません。
Cecye(セスィエ)