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本当に物事が、よく分かっているかどうか、ということは、物事の本質ややり方を、どれだけ手短かに簡単に分かりやすく説明できるかどうか、ということに尽きているようなところがある Part 3

②民主主義社会に生きる市民として、最低限必要な市民教育以外の教育内容に関しては、一人一人の学生(生徒)の好みやレベルに応じて、学習内容全体を、かなり自由にカスタマイズできるようにしつつ、かつ最高の成果が上げられるような教育システムになっていることが望ましい

 第二には、今度は、今述べたこととは、いっけん反対の考え方になってしまうのですが、そうした観点から見ると、多くの人々が、自分で自主的に習っているものに関しては、全然、別の話になるのですが(普通、自分の親が、お金を払う塾やスポーツ教室などは、子供に合う所か、子供のレベルに合った所にしか行かせませんから・・・)、現在の教育体制だと、その人としては、全く興味も関心も湧かないような内容の話を、かなり長時間に渡って、強制的に聞かなくてはならなくなるとか、その人としては、全然易しすぎる、あるいは、全然難しすぎるような、自分のレベルとは、全く異なるようなミスマッチな授業を、長時間に渡って、受けなくてはならなくなるとか、それから自分としては、あまりよく分からないし、また、それほど何か出来るようになったとも思えないような、はっきり言うと、あまり意味のないようなことを、ほとんど何の選択肢もない状態で、かなり長時間に渡って、やらなくてはならなくなるようなところがあるなどというように、全然、何の経験も得られないとか、それほど大した成果も自信も得られないような教育内容が、結構多いことに気付くのですが、これに関しては、だいたい以下のような二つのことが言えます。

 まず第一には、一昔前の時代と違って、現代の日本のような先進国の仕事や生活では、もう昔のように、とにかく偉い人や他の人から言われたことを、言われた通りにやっていれば、何とかなるなんて時代は、当に終わってしまっているので、私は、わりと小さい頃から親や学校の教師などが、「民主主義社会の一人前の社会人としては、もう絶対に、これだけは知っていてもらわないと困る」とか、「これだけは、出来るようになってもらわないと困る」というようなこと以外の内容に関しては、昔のように機械的に長時間、みんなで一緒に同じ授業を受けさせるようなことはしないで、わりと早い年代から、将来の仕事や生活の可能性を、具体的にいろいろ紹介しながら、「学んだり働いたりすることは、こんな風に楽しい素晴らしい、やりがいのあることなんだよ」とか、「一生の生活設計は、こんな風に考えてゆけばいいんだよ」などという具合に、一人一人の好みや才能や能力に合わせて、もう少し気楽な風通しの良い形で、単に学校の教師達だけが、学生や生徒と向き合って、孤軍奮闘するのではなく、その地域の親や家族やシニアの人々や、また場合によっては、いろいろな塾やスポーツ教室や文化教室などの人々も含めた地域ぐるみで、子供達を囲んで、みんなでしっかりとサポートして見守るような形で、子供達がある程度、自立出来るようになるまで、いろいろ支援してあげるようなシステムにしてあげた方がよいのではないか、ということです。

 第二には、今度は、今とは違った観点からの話になるのですが、そうすると、これは一昔前の日本のように社会全体にお金もない、建物も設備もない、学歴のある人もいない、ノウハウのストックもないというような時代の社会であれば、全く別なのでしょうが、とにもかくにも現代の日本のように、ちょっとでも良い企画やお金儲けの話があれば、いくらでも、お金も人も資材も集まってくるような状況の社会の場合には、これまでの時代のように国や社会が、一方的に画一的な教育の機会を提供するよりかは、できるだけ、それぞれの個人の好みや関心や能力に合わせて、最高の教育成果が得られるように、学校や教師や教室(地域の塾やスポーツや文化教室なども含めて)をある程度、自由に組み合わせて、コーディネートできるようにして、その上で国や地域社会の側は、どちらかと言うと間接的な形で、「一人一人の人間が、最低限の学習成果が得られているか」とか、「これだけは、しっかりとマスターしてもらわないと困るというような内容が、しっかりマスターできるようになっているかどうか」ということの間接的なチェック機関のような役割をするというような方法が考えられます。

 

 続く・・・

 

Cecye(セスィエ)

2012年10月4日 9:06 PM, 教育 / 知恵、正しさ



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