7〜8月の頃は、本当は一年中で最も暖かい季節なので、それこそ時間が空いたら、ただ単純に楽しんだり遊んだりすることにいろいろ時間を使えば良さそうな季節だと思われるのですが、それが残念ながら毎年、日本だと原爆、敗戦、お盆と何となく、シュンとして暗くなるような話が多くて、ちょっと問題が多いように思われるので、今回から昔の戦争について、少し述べてみたいと思います(最初に言っておきますが、これは感傷的な見解ではなくて、ちょっと冷静なドラスティックな考え方になります)。
まずは、日本で「敗戦」と言えば、真っ先に思い浮かぶのが、おそらく原子爆弾ではないかと思われるので、今回は、その原子爆弾について考えてみたいと思います。
1、古代、中世とずっと続く人類の悲惨な戦争の歴史の中では、科学技術の発達に伴う原子爆弾の登場は、ごくごく当然の歴史の一過程に過ぎないようなところがある
まず第一には、これは多くの日本人は、政府の洗脳で少し頭がおかしくなっているから、そう考えるのではないかと思われるのですが、はっきり言って、人類のここ数千年の歴史は、どんなに立派な歴史や文化のある国や地域であっても、あっちもこっちも、いつも戦争だらけ、いつも略奪や混乱だらけであった、というような非常に厳しい現実があります。
その結果、昔であれば、刀や槍や弓、それから近代に入ると銃や大砲や爆発物、それから現代に入ると大きな鉄製の軍艦や、戦車や軍用機に、それからミサイル・・・、などという具合に時代の変化と共に、常に常に新しい兵器や戦争の方法や、それから、それに伴うさまざまな防衛のあり方というのが考えられ続けてきたということなのです。
こうした観点から見ると、今から60〜70年前の第二次世界大戦の辺りで、当時の最先端の科学技術を使った非常に強力な破壊力を持った原子爆弾が登場したとしても、それは古代、中世とずっと続いてきた武器や戦争の仕方の発達の一過程に過ぎないので、はっきり言って、武器の種類としては、ただの銃や爆弾であろうが、原子爆弾であろうが、基本的にあまり変わらないようなところがあるのです。
ですから、今日の一般的な日本人が考えるような「銃や爆弾は普通の武器だけど、原子爆弾だけは、非人道的な大殺戮兵器!」とか、「戦艦大和や航空母艦は、当たり前の通常兵器だけど、原子爆弾だけは、人類が絶対に使ってはいけない、天に唾するようなとんでもない武器である」というような物の見方というのは、冷静に考え直してみる限り、かなり異常なずれた考え方であるということです(結果として見ると、銃や爆弾で殺されようが、原子爆弾の爆発で殺されようが、何千人、何万人、こんな殺され方で亡くなったという事実に変わりはないのですから・・・)。
2、ただ、やはり原子爆弾に関しては、非常に強力な破壊力の観点から見ても、また非常に長い期間に渡る放射能の被害の観点から見ても、いくら地球上の人類が、あちこちで敵味方に分かれるような状況になったとしても、基本的にはどこの国であれ、できれば絶対に使いたくない、また、できれば絶対に使われたくない兵器の一つであることに変わりはない
第二には、それでは、「原子爆弾は、いくら使ってもよい普通の兵器なのか」というと、これは確かに今日、多くの人々が知識的に、あるいは、何となく本能的に理解しているような考え方、つまり「あんな強力な破壊力を持ち、かつ、かなり後々まで放射能の被害によって多くの人々を苦しめるようなとんでもない兵器なんて、絶対使ってほしくない」とか、「あんな強力な破壊力のある兵器で世界中で大戦争をやったら、敵国だけでなく、地球そのものが壊れてしまうのではないか」というような感想の通り、実際、原子爆弾というのは、非常に強力な破壊力の観点から見ても、また長期的な被害の観点から見ても、とても問題が多いというか、もっとはっきり言うと、あまりに破壊力や被害が大き過ぎて、とてもではないが、どんな軍事大国であっても、よほどの非常事態にでもならないと実際に使うことができない、というか、本音を言うと、どこの国も、できれば絶対に使いたくないし、また自分の国に対しても、できれば絶対に使われたくない兵器であるということなのです。
Cecye(セスィエ)