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「陰陽説」について Part 39

5、陰陽説の盛んな国や地域では、多くの人々が、いつかは、体験してみたい、最高の幸運を手に入れるために、かなり実現不可能な、秘めた願い事を持つことが多くなるために、だんだん、宗教が形骸化して、「無」の神仏を祭るようになってゆくケースが多い

 第五には、さて、この後が、ものすごく問題なのですが、実は、前にも述べたように、多くの人々の魂の傾向としては、さまざまな生まれ変わりの中で、何らかの一つの極端に当たるような体験すると、どうしても、いつかは、その反対の、もう一つの極端に当たるような体験をしないと気が済まなくなってくるようなところがあるので、それゆえ、実は、陰陽説のような「二元論」の世界観の支配する国や地域では、必要以上に、多くの人々が、そうした、いつかは、体験してみたい、もう一つの極端な体験を目指して、あっちこっちと、それこそ、あの陰陽のシンボルマークのように、ぐるぐると、めちゃくちゃな輪廻転生の渦に巻き込まれていってしまうことが多かったのです。

 そうすると、そうした国や地域の宗教というのは、いったい、どのようなタイプのものになってゆくのか、というと、たいていの場合、それこそ、よくありそうな普通の庶民の人生の体験なら、ともかくとして、たぐいまれなる幸運に恵まれた王様や大金持ちの人生の体験なんて、そうは、めったに体験できるわけもないので、「そこを、何とか、偉い神様の引き、とか、幸運の巡り合わせによって、何とかならないか」、というような、言ってみれば、一攫千金(いっかくせんきん)で、宝くじ型の当選を目指すようなタイプの宗教が、だんだん、あちこちに軒を連ねるようになってゆくのです。

 つまり、たいていの人は、貧困や戦争や飢饉や天変地異などの、何らかの機会に、かなり極端な不幸な体験というのはしたことが多いものなのですが、そうした体験の全く正反対の体験、つまり、王様や貴族や大金持ちや武将やお姫様のような、人も羨むような、高貴な身分の体験なんて、たいてい、めったにできるものではないにも関わらず、「一度でいいから、そうした体験がしてみたい」、などというような潜在願望が、あっちこっちに溜まりに溜まるような状況になってゆくので、その結果、はっきり言うと、はた目から見る限り、「ああ、ああ、そんな願い事、無理に決まってあるよ!(昔の中国映画風のセリフ)」、とか、「あんた、そりゃ、どう考えてみても無理だけど、まあ、偉い神様なら、ひょっとしたら、ものすごい奇跡でも起こしてくれるかもしれないね〜」、というような具合に、客観的に見る限り、かなり確率の低そうな、実現不可能な願い事のようなものを、東洋風に言うと、神社の鈴や寺の鐘を、ジャラーン、ジャラーンと鳴らしては、「神様、仏様、お願いします〜〜〜!」、などと頼むようなタイプの宗教が、あっちにも、こっちにも、国中、どこの街や村にも、軒を連ねるような状況になってゆく、ということなのです。

 それでは、こうした宗教は、本当に、正当な神仏を拝んでいると言えるのか、というと、残念ながら、そうとは言えなくて、たいてい、そうしたタイプの宗教というのは、多くの信者達が、そもそも、一攫千金の宝くじの当選狙いのような人々ばかりであることから、時代が過ぎるにつれて、「神様は、偉ければ、偉いほどいい」、とか、「格式は、高ければ、高いほどいい」、などというような具合に、はっきり言うと、そもそもの神仏の立場からは、かなり逸脱した、言ってみれば、「ちょっと、あり得ない神様」、とか、「ちょっと不可能な願い事叶え仏」のような神仏ばかりに、だんだん、なってゆく、ということなのです。

 つまり、こうした陰陽説の広がった国や地域では、あっちも、こっちも、よく考えてみれば、「どうか、今度こそ、宝くじが当たりますように」、とか、「たぐいまれなる幸運の奇跡が、自分の身に臨みますように」、などというような、一攫千金の、かなり難しい願い、というか、もっとはっきり言うと、ほとんど無理な願い事を頼むための、言ってみれば、神であって、神でない、また、仏であって、仏でない、何かを崇めるような、「無の神様」、「無の仏様」を祭るような宗教ばかりになっていってしまうようなところがある、ということなのです。

 

 続く・・・

 

Cecye(セスィエ)

2012年7月3日 9:02 PM, 中国思想 / 宗教、道徳 / 社会、文化



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