3、物事には、「陰陽説」のような、二元論的な物の見方で、何でも、うまく処理してゆけるものと、一元論や中道論や多元論的な物の見方でないと、うまく処理してゆけないものがあるので、実際問題として、何でも「陰陽説」のような二元論では、乗り切っていけないようなところがある
第三には、これは、少し難しい考え方になるのですが、何でも、物事を、「陰」と「陽」の二つの基準で見てゆくようにした場合、確かに、二元論的な物の見方で、うまく物事を処理できるような内容に関しては、わりと、うまく行くかもしれないのですが、ただ、そうではなくて、一元論的な物の見方や、中道(中庸)的な三言論的な物の見方や、多元論的な物の見方で、物事を見てゆかないといけないような場合には、実際問題として、かなり不都合が生じるのではないか、ということです。
つまり、二元論的な物の見方で、うまく物事を処理できるような内容に関して、「陰」と「陽」のような、かなり単純な二元論的な物の見方で考えていった方が、物事を、わりと簡単に、手早く、正しい形で処理してゆけるのではないか、と思われるのですが、ただ、そうではなく、「ちょっと、これを、何でも、良いとか、悪いとか、言わない方がいいんじゃないか」、とか、「そこで、陰とか、陽に分けちゃうと、いろいろ問題が生じるのではないか」、と思われるような内容に関しては、何でも単純に、「これは、陰、これは、陽」、などと、そう簡単に断定してはいけないのではないか、ということなのです。
このように、二元論的な物の見方が、わりと適合しやすいものに関しては、「これは、陰、これは、陽」、などというように、単純に二つに分類してよいものもあるかもしれないのですが、そうした二元論的な物の見方が合わないものに関しては、何でもかんでも、そうした二元論的な物の見方をしていると、とんでもない大失敗をしてしまうことがあるのではないか、ということです。
Cecye(セスィエ)