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「陰陽説」について Part 37

4、「陰陽説」が、その国や地域に根強く浸透するようになると、なぜか、その後、ある段階から、多くの人々の間で、「あまり何も考えない、感じない、思わない」、というような、「無」の宗教思想や思考習慣が席巻するようになってゆく

 第四には、これは、もっと、ちょっと、ややこしい話になるのですが、実は、陰陽説には、致命的な大欠陥があって、それというのは、こうした、世の中のものを、何でもかんでも、「陰陽」というような、二つの要素に分けるような考え方をしていると、その後、それが回り回って、多くの人々が、結果として、陰でも、陽でもない第三の存在、というよりも、もっとはっきり言うと、存在してない存在、つまり、何もない「無」や「空」のようなものを、さも、この宇宙で最も大切な「神仏」のようなものとして、拝むような事態になってゆくことがある、ということなのです。

 この因果関係は、何百年単位の月日で見ないと、よく分からないようなものであるために、現在までの地球の歴史では、まだ、あまり深く考えられたことのない内容になってしまうのですが、大まかに、要約すると、だいたい、次のような二つの因果関係で、そうした結論に達する人々が、数多く出てくるようになるようです。

 

①陰陽の思想が、その国や地域の文化に根強く浸透するようになると、だんだん、多くの人々が、あまり深く考えない、感じない、思わない、というような、ちょっと不思議な、非人間的な「無」や「空」の思考習慣を持つようになってしまうようなところがあった

 まず第一には、こうした陰陽の思想が、その国や地域の文化に根強く浸透するようになってゆくと、ある段階から、多くの人々は、生活全般に関する、ほぼすべての物事を、陰陽説のように、「これは、陰で、これは、陽だから、当然か」、とか、「これは、陰(陽)だから、もう少し陽(陰)にすればいいか」、とか、「これは、陽(陰)が強いので、陽(陰)が弱くなるまで、少し待てばよいか」、とか、「陰の気がこもってしまったので、気の滞りをなくさないといけない」、などというように、仕事や生活全般に渡る、ほぼすべてのことに関して、こうした陰陽の理屈で考えようとし出すようになるのですが、ところが、これは、先ほどの多元論的な思考の欠如、つまり、「陰でも陽でもない、第三の中庸の道に入ろう」、とか、「もう一つ、別の新たな発想で乗り切ろう」、とか、「別に、たくさん、いろいろな考え方や、やり方があってもいいか」、というような、多元論的な発想を、全く欠いた状況になりがちなので、その結果、しばらく時間が経つと、多くの人々が、だんだん、あまり物事を深く考えなくなってきたり、あるいは、古い伝統やしきたりは、しっかり重んじるのだが、日常的には、非常に硬直化したことしか考えられなくなって、いつも無表情になってしまう、というような、あまり良い意味とは言えないような、「無」や「空」の思考習慣を持つようになる、というか、もっとはっきり言うと、常に、何があっても、よほどのことがない限り、あまり深く考えない、感じない、思わない、というような、ちょっと不思議な、非人間的な思考習慣を持つようになってしまうようなところがあった、ということです。

 

 続く・・・

 

Cecye(セスィエ)

2012年7月2日 9:02 PM, 中国思想 / 人生観、世界観 / 宗教、道徳 / 知恵、正しさ / 社会、文化



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