⑤非常に長くて、ごちゃごちゃした神話や歴史を丸暗記のように学ばされてしまうと、いっけん何でも知っていて、頭は良さそうなのだが、結局、理性や合理性や判断力の面で問題の多い先延ばし型の頭の悪い人になってしまうことがあるので、注意が必要である
第五には、これは専門家のような人々からはあまり指摘されないにも関わらず、多くの人々の本音としては、いつも感じていた内容なのではないかと思われる話になるのですが、ギリシャ神話のように非常に長くて、ごちゃごちゃとした神話の場合(日本の神話の方が、もっと遥かにごちゃごちゃした印象を受けますが・・・)、現代人がよく知っているような学校教育的な歴史の感覚とはかなり大きく違って、「結局、いつ頃、何が起きて、その結果、いったいどうなったのか」とか、「ある出来事と別のある出来事との間には、いったいどのような因果関係があるのか」とか、それから「ある出来事と別のある出来事の間には、いったいどれくらいの期間の差があったのか」とか、さらには「ある人物の判断の結果、いったいどのようなことが起きたのか」とか、「もし別の判断をした場合には、いったいどのようなことが起きえたのか」などというようなことが、何が何だかよく分からなくなってきてしまうようなところがあるのです。
つまり本来、歴史を学ぶというのは、単に意味不明の膨大な知識を丸暗記することなのではなくて、そうした歴史の中から何らかの教訓を学んで、個人あるいは集団として、現在及び未来において、少しでも大きな失敗を避けつつ、できるだけより良い未来を選びとるための知恵を得てゆくことが非常に重要なのではないか、というように私は思うのですが、ところが、こうしたギリシャ神話的な歴史観を持つと、ごちゃごちゃとした非常に長い期間の話が、どっと頭の中に流れ込んできてしまうことになるので、その結果、そうした歴史に対する理性的な理解であるとか、分析的な解釈というのが、だんだん何が何だかよく分からなくなってきてしまうようなところがあるのです。
つまりギリシャ神話(日本の神話に関しても、ほとんど同じようなことが言えますが)のような、ごちゃごちゃとした非常に長い神話や歴史を学ぶと、結局、多くの人々は本来、歴史から学ぶべき歴史の教訓のようなものが逆にすっかり分からなくなってしまい、「いついつ誰それが何々をした」というようなことまでは、一応ある程度は覚えているけれども、それでは、そうした歴史的な教訓に基づいた場合、現在の政治家や一般市民としては、「いったい何をどうすると失敗につながるのか」とか、また、「いったい何をどうすると成功につながるのか」というようなことは、結局、全然分からないとか、偉い神様や偉い人物の名前や業績は一応知っているけれども、それでは、「その人は、いったい何を理想にして、何をどうやって実現できた点が偉いと言われているのか」とか、また「いったいどのような点において、何を失敗したと言われているのか」というようなことに関しては、結局、あまり分かっていないというような状況になってしまいがちであったのではないか、ということなのです。
ですから、もっと簡単に言うと多くの人々の単純な思い込みとは違って、ごちゃごちゃとした非常に長い神話や歴史を学ぶと、理性的にパッパッと最も合理的な判断ができるような頭の良い人ができるのではなく、その反対にいつも難しそうな顔をしては、あれもこれも一緒くたに考えてしまい、なかなか理性的、合理的な判断ができずに、何でも先延ばしにして、判断や行動自体をいつまでも回避し続けてゆくような優柔不断の頭の悪い人になってしまうことがある、つまり、もっとはっきり言うと、いっけん、いろいろな知識や情報は知っていて、頭は良さそうなのだが、責任感や判断力の面でかなり問題の多い、先延ばし型の頭の悪い人になってしまう可能性があるという点で、非常に注意が必要であるということなのです。
このようにギリシャ神話のように非常に長くて、ごちゃごちゃした神話を多くの人々が、まるで本当の真実であったかのように受け入れてしまうと(もちろん、歴史的に事実であったことに関しては別なのですが・・・)、その後、そうした霊的、知的な混乱が、地上の世界のあちこちでさまざまな悪影響を及ぼす可能性があるので、非常に注意が必要なところもあるのです。
Cecye(セスィエ)
2012年5月19日 9:08 PM, ギリシャ神話 / スピリチュアリズム、霊界 / 宇宙文明、古代文明 / 宗教、道徳 / 政治 / 歴史 / 知恵、正しさ / 社会、文化