神仏についての話の続きになります。
日本の神道だと、おそらく元々は、現代よりも、もう少し、すっきりした太陽神、というか、光の神のようなイメージで「天之御中主神(あめのみなかぬしのかみ)」や「天照大神」を、多くの人々は、そうした創造主やキリスト意識のように考えて、信仰していたのではないか、と思われます。
ただ、日本の場合、とにもかくにも神仏が、たくさんいることになっているので、それ以外について、いろいろ調べてみると、これは知っている方だと、かなり不思議に思われるかもしれないのですが、元々は、この宇宙の創造主やキリスト意識を表していたのではないか、と思われる代表的な日本の神々としては、天照大神と対立して、高天原を追放された「スサノオ」や、出雲大社の「大国主神(おおくにぬしのかみ)」(おそらく、国譲りの話は、後から、でっち上げたインチキの話だと思います)や、「大物主神(おおものぬしのかみ)」や、それから稲荷(いなり)神社の「宇迦之御霊神(うかのみたまのかみ)」や、「国之常立神(くにのとこたちのかみ)」(いわゆる、大本教の「艮(うしとら)の金神」のことです)などがあげられます。
それから、伊勢神宮の外宮に「豊受大神(とようけのおおかみ)」と呼ばれる存在が祭られているのですが、これは、おそらく、元々は反対で、現在、「豊受大神」として知られている存在の方が、天照大神よりも遥かに格が上で、この宇宙の創造主やキリスト意識の直系のような存在に当たっているのではないか、と思われます。
ただ、それらの神々と呼ばれる存在は、まだ現在でも、霊的には、かなり厳重に封印された状態になっているので、はっきり言うと、全く別の存在のように感じられることが多いのではないか、と思われます。
それから、キリスト教のイエスと同じく、こうしたキリスト意識にちなんで、日本の歴史上、かなり間違った話が伝えられている存在として、飛鳥時代の「聖徳太子」などをあげることができます。
いずれにしても、こうした、この宇宙の「創造主」や「キリスト意識」と呼ばれる存在は、日本では、かなり厳重に、いろいろな手段で霊的に封印されまくっていたように思われます。
※つまり、日本の神道の場合、元々は、一つだったはずのものが、二つ、三つ、四つと、あまりにもたくさんの存在に分けられすぎていることと、それから、いろいろな手段で、そうした神々が霊的に封印されて、場合によっては、荒神や鬼のような扱いになっていることが、とても問題なのではないか、ということです。
追伸
昨日の文章の真ん中辺りに、霊的に見た場合、本当は「釈迦」と「イエス」は、それほど大きく異なる存在ではない、というような文章を付け足したので、興味のある方は、再度、確認してください。
少し前から、「神」と「仏」について、一度、しっかり書かないといけないと、ずっと思っていたのですが、現在、何となく、少しそうした方向に話が脱線しております・・・。
Cecye(セスィエ)
2012年5月1日 9:01 PM, キリスト教 / スピリチュアリズム、霊界 / 宗教、道徳 / 神道