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イエスについて Part 24

 この話は、ちょっと、いろいろと妨害されることが多いので、書いた側から、どんどん発表するようにしていたのですが、今日の夜、載せようと思っていた分を、今日は、予定を変更して、朝、載せておくことにします。

 

④自らの心が、精妙でない状態で、神仏への信仰的信念を強く持ち続けるような、パウロ的な信仰では、本物のこの宇宙の創造主ではなく、偽創造主の所に、霊的につながってしまうことになるので、注意が必要である

 第四には、これは、霊的には、かなりはっきりしていることなのですが、このパウロ的な信仰によって、霊的につながる場所を、霊的に調べてゆくと、本当の、この宇宙の創造主ではなく、いわゆる、このブログで、何度も述べているような、偽創造主や偽キリストの所につながってしまう、ということです。

 その理由は、少し難しいのですが、要するに、この宇宙の創造主に対して、霊的につながるためには、どうしても、次のような三つの注意点をクリアーしていないと、全く不可能になってしまうからです。

 まず第一には、自分自身の精神状態を見直してみて、あまりにも強く、自分のことを守りたい、とか、自分の欲望だけを満たしたい、というような、自己保身や強い欲望の心や、他の人々を害し、責め裁くような心や、この宇宙の創造主である神を強く否定したり、疑うような心を持たずに、自分自身を愛し、また、他の人々や生き物達を愛し、そして、この宇宙の創造主である神を愛するような、穏やかで、安らいだ心境になる必要がある、ということです。

 第二には、これは、宗教を熱心にやりすぎた場合の弊害であるとしか、全く言いようがないのですが、とにかく、「神仏は、こういうものだ」、とか、「霊界は、こうなっているはずだ」、などと、あまり強い信念のようなものを持ちすぎると、かえって、そうした宗教的な信念が災いしてしまい、本当の創造主には、自分の意識が、全く合わなくなってしまう、ということです。

 ですから、そうした、神仏や霊界への固定概念のようなものは、できるだけ持たずに、穏やかで、優しい心境になることが、とても大切である、ということになります。

 第三には、これも、宗教に関するパラドックスであるとしか、全く言いようがないのですが、とにかく、強い信仰心などと言って、そうした神仏、というか、創造主に対して、一つの強い信念のようなものを持って、合わせようとすると、それが、あだになって、そうした本当の神仏である創造主には、霊的に、全く合わなくなってしまう、ということです。

 これは、自分の精神状態を、かなり奥深くまで探ってみないと、なかなか、よく分かりづらい内容になるのですが、たいてい、強い信仰心などと言っている人というのは、それは、裏を返すと、「絶対に信仰を失いたくない」、とか、「絶対に負けたくない」、とか、「絶対に地獄に落ちたくない」、とか、「絶対に仲間に馬鹿にされたくない」、とか、「絶対に怒られたくない」、などというような、マイナスの感情の裏返しとして、そうした絶対的な信念のような心を持とうとしていることが多い、ということなのです。

 それでは、そうした、強い信仰的な気持ちと、実際の神仏への気持ちは、いったい、どのように整理してゆけばよいのか、というと、これは、わりと単純で、要するに、たとえ、いろいろな霊的な体験を経て、自然と培(つちか)うようになった、信仰的な強い思いであるとしても、普段の信仰的な感覚と、そうした祈りや瞑想の際の信仰的な感覚は、その時々によって、うまく使い分けてゆけばよいのではないか、ということです。

 つまり、いろいろな霊的な体験を経て、培った、自分の信仰的な信念は、まあ、これは、程度にもよるのですが、それなりに、普通に持っていてもよいのかもしれないのですが、ただ、祈りや瞑想の際には、そうした、あまりにも強い信仰的な信念を持っていると、原則、本当の神仏、あるいは、本当の創造主のもとには、そうした祈りや瞑想は、全く届かない、というような非常に厳しい現実があった、ということなのです。

 このように、今述べたような三つの注意点を満たしていない場合には、原則、この宇宙の創造主に、霊的につながることは、全く不可能になってしまう、ということです。

 それゆえ、こうした観点から考えてみると、実は、パウロという人が説いた信仰であると、「自分自身の精神状態なんて、ほとんど、気にせずに、とにかく、キリストを信じることが大切なのだ」、とか、現実には、どんな人間でも救えるような人なんて、全く、いないにも関わらず、「キリストなら、絶対、どんな人でも救ってくれるはずだ」、とか、「とにかく、信仰するだけで、自分は、許されているはずだ」、とか、「イエスの直弟子(じきでし)の話なんて、どうでもいい。とにかく、自分が、一番、いい(楽だ)と思った信仰のやり方でいい」、というような考え方が、あまりにも露骨なのではないか、ということなのですが、実際、こうした信仰の感覚で、霊的につながっているところを調べてみると、本物の神である、この宇宙の創造主とか、本物のイエスには、全然、つながらずに、それと、非常によく似た、偽物の創造主であるとか、偽物のキリストの所に、霊的につながっているのが、ほとんどすべてだったのではないか、ということなのです。

※キリスト教で、「神」や「イエス」や「天使」と呼ばれている存在達が、地上の世界の人々に、いろいろな手段で、守護や救いを差し伸べているのは、確かに事実であるのですが、ただ、現代のキリスト教は、霊的に見た場合、そのすべてが悪いというわけではないのですが、そうした神やイエスや天使達を、霊的に封印するような働きの方が、ずっと強い、ということです。

 

 続く・・・

 

Cecye(セスィエ)

2012年1月16日 8:11 AM, キリスト教 / スピリチュアリズム、霊界 / 人生観、世界観



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