③霊的に見た場合、パウロ的な信仰の感覚は、現実逃避的で、非常に厳格、排他的で、また、若干、独断的で、利己的にすら感じられるのに対して、イエス的な信仰の感覚は、霊的ではあっても、非常に現実的で、寛容で協調的で、非常に優しく親切であると感じられるので、霊的な実態としては、パウロの説く信仰は、イエスの教えを、かなり歪めたものだったのではなかったのか
第三には、これは、キリスト教に詳しい人でも、あまり言わない内容になるのですが、はっきり言うと、このパウロという人が説いた信仰というのは、イエス本人が考えていた信仰とは、おそらく、ほぼ正反対の内容だったのではないか、ということです。
これは、単純な話なので、わりと説明は楽なのですが、要するに、イエスという人は、当時のユダヤ教的な、非常に厳しい戒律を守る中での、神への信仰ではなく、もう少し実生活に密着した形の、現代的に言うと、もっと優しい愛に満ちた信仰を説いた人だったのではなかったのか、ということなのです。
要するに、当時のイエスの主張というのは、「現実を見なさい。この世の中の現実を見る限り、神は、そんなに厳しい性格の方ではない。もっと、神を、愛の存在であるという観点から見直して、自分に対しても、他の人々に対しても、もっと寛容な態度で、お互いに愛し合い、許し合うような人間関係を模索し直そうではないか」、とか、「もっと、お互いに信じ合い、尊重し合い、協調し合って、素晴らしい世界にしてゆこうではないか」、というような、わりと現実に立脚した形での、愛情に満ちた、神と人間との関係や、人間同士、あるいは、人間と生き物との関係を提案したのではなかったのか、と私は思うのです。
ところが、これが、パウロ的な観点の信仰になると、かなりニュアンスが変わってしまい、「とにかく、神を信じていれば、心の安らぎや救いが得られる」、とか、「神は愛なので、絶対に自分を許し、愛してくれる存在のはずだ」、とか、「神は愛なので、とにかく、他の人を強く信じて、愛さなくてはならない」、などというように、その信仰のベース自体が、元々のオリジナルのイエスの主張が、基本的に、霊的ではあるけれども、非常に現実的、かつ、寛容で協調的、かつ、優しくて、親切であるのに対して、パウロの主張は、現実逃避的(または、現実否定的)、かつ、非常に厳格で排他的、それから、信仰と言っても、ちょっと利己的で独断的な性質が、かなり目立つのではないか、ということなのです。
こうした観点から考え直してみる限り、私は、率直に言って、もともと、イエスという人が説いた信仰と、その後、パウロが、盛大に広げたと言われている信仰の内容は、かなり違う、というか、もっとはっきり言うと、実質的に、その中身がすり替えられた、もしくは、全く正反対になった、というのが、実態だったのではないか、というように、率直に考えております。
※パウロ的な信仰で、神を感じようとすると、確かに、精神的には、非常に安らいだ、救われているような感覚はするのですが、ただ、何となく、霊的には、閉じて、凝り固まっているような感じがします。ところが、元々のイエス的な感じで、信仰的な思いを発すると、救われているというよりかは、どちらかと言うと、神を、より身近に感じ、より自然な形で、自分や他の人々への愛を感じるということと、それから、霊的には、明らかに開放的な感覚がするので、これは、同じ信仰と言っても、実質的に、その中身が、全く違うのではないか、というのが、私の実体験からの感想になります。
Cecye(セスィエ)
2012年1月15日 9:12 PM, キリスト教 / スピリチュアリズム、霊界 / 人生観、世界観