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イエスについて Part 18

2、多くの人々が、強い信仰に基づいて、ある特定の宗教的な信念を共有するようになると、その集合想念のパワーによって、四次元世界には、その宗教の教えそっくりの疑似天国や疑似地獄や歴史世界ができたり、その宗教の教えの通りの神仏や悪魔キャラクターが現れて、まるで本物の神仏や悪魔のように、あちこちで活動するような事態になることがあるので、大変、注意が必要である

 第二には、これも非常に問題が多い内容になるのですが、とにもかくにも、キリスト教の信仰というものを、真剣にやった人というのは、何を見ても、何をするにしても、神の教えが述べられている聖書に照らして、正しいのか、そうでないのか、ということを、常に常に、心の中でチェックしていて、その上で、聖書の教えに照らして、正しいものは、わりと素直に受け入れるけれども、そうでないものに対しては、もうこれは、とんでもない悪魔の教えや悪魔の行為だとばかりに、パッとはじいて、受け付けなくなってしまうようなところがある、ということなのです。

 これは、日本人から見ると、すぐに、イエスか、ノーか、はっきりさせるキリスト教圏の人々の考え方や行動の非常に大きな特徴なのではないか(私は、本当は、どの国、どの社会、どの宗教であっても、よく調べてみると、必ず、ダブル・スタンダードになっていると思いますが・・・)、と思われるのですが、ところが、ここで問題なのは、このイエスか、ノーか、はっきりさせる基準が、そもそも、霊的に見ても、科学的に見ても、その出典や元の話が、かなり曖昧、というか、はっきり言うと、非常に怪しいと思われるような、聖書の文章や教会の考え方になっているために、こうしたキリスト教徒の人々が、いざ、この世の生活が終わって、死後の世界での新生活に入ると、本人としては、全く思いもよらないような試練、というか、とんでもないハプニングに、次々と巻き込まれていってしまうことがある、ということなのです。

 これは、これまでのスピリチュアリズムやニューエイジのような情報でも、まだあまり触れられていないような内容なので、初めて聞く方は、かなり驚かれるような内容になるかもしれないのですが、大まかに要点を述べると、以下のような三つの内容になります。

 

①地球の四次元世界には、たくさんのキリスト教徒の人々が、聖書に基づく信仰によって、創り出した、聖書の話そっくりの、いろいろな時代の歴史世界が存在していて、そうした歴史世界にいる、さまざまな人物や神や天使や悪魔のような存在達が、そうした幽界のみならず、地上の世界の人々に対しても、さまざまな霊的な干渉を行うような状況になっていた

 まず第一には、これは、霊界を、広く縦断するような形で、霊的に見ることができないと、なかなか、よく分かりづらいのではないか、と思われる内容になるのですが、霊界の中でも、五次元以上の天国ではなく、それより下の四次元の上の方には、地上の世界のキリスト教徒の人々の非常に強い信念によって、投影された、かなり広大な、聖書そっくりの、いろいろな時代の歴史の世界(一種の仮想現実の世界のような所です)が、広々と広がっているようなところがあるのですが、そうした聖書の歴史の世界には、まさしく、聖書の中に登場する歴史上の人物そっくりの人々が、今でも、その時代と、ほとんど同じような行動を、まるでエンドレスのビデオ上映のように、何度も何度も、繰り返し続けている世界がある、ということなのです(これが、聖書を読むと、別に、本当の事実かどうか、よく確認できたわけでもないのに、聖書独特の、妙なリアリティー、というか、妙な真実味のようなものが感じられる理由だと思われます。ただ、何となく、時間が止まった世界みたいにも感じられますが・・・)。

 これは、前にも何度か述べたのですが、多くの人々が、宗教や学校で習った通りの歴史世界を、非常に強い信念によって、深く信じ込んでいるために、地上の世界のすぐ側の幽界に成立した、言ってみれば、いろいろな時代の歴史を、その知識の通りに再現した、一種の仮想現実のような世界である、ということになるのですが、ここで問題なのは、実は、こうした聖書の歴史通りの仮想現実の世界にいる、さまざまな宗教にまつわる人物や生き物や、あるいは、神や天使や悪魔と呼ばれるような存在達が、そうした四次元世界だけでなく、地上の世界で、まじめに宗教生活を送っている、多くの人々に対して、さまざまな形で、霊的に干渉してくることがある、ということなのです。

 つまり、多くのキリスト教徒が、非常に強く信じている歴史上の人物や神や天使のような存在達が、そうした信仰のパワーによって、霊界において、非常にリアルなキャラクターを伴って、存在するようになると、そうした宗教のキャラクター達が、四次元の疑似天国や幽界ばかりでなく、地上の世界で、熱心にキリスト教を信仰している人々の生活に対して、さまざまな形で、いろいろ干渉するようになってくる、ということなのです。

 もう少し分かりやすく説明すると、たとえ、元々は、かなり虚像に近い人物であったとしても、多くの人々が、非常に強い信念でもって、「その人物は、こんな服装をしていて、こんな性格で、こんな風に話したり、こんなことをする」、などというように、非常に強く信じ込むようになると、そうした多くの人々の強い想念が結集してゆき、霊界に、そうした個性の人物が、あたかも元から本当にいたかのごとく、現れるようになってゆくのみならず、その後、そうして、一つの個性を持った霊的な存在が、霊界や地上の世界の至る所に、次々と現れては、たくさんの人々に、まるで、その当の本人であるかのごとく、話しかけてきたり、また、時には、ちょっとした奇蹟のようなことですら、実際に行ってゆくようなことがある、ということなのです。

 つまり、ここで重要なのは、そうした聖書のような宗教書に登場する人物に対して、それぞれの人が、直接、霊的に意識を合わせて、いろいろ聞いたり、話したりするのではなくて、そうではなく、多くの人々が、「とにかく、そうした宗教書に登場する人物のことを、教会に教えられた通りに、強く信じていればいいんだ」、というようなスタンスを持つようになってしまうと、いつの間にか、そうした宗教書の中のキャラクター達が、その当の本人とは、全く関係なく、多くの人々の信念によって、霊界において、勝手に活動するようになるばかりでなく、そうして、霊界に創造された、宗教上のキャラクター達が、今度は、その宗教書の教えの通りの話や行為を、まるで、当の本人であるかのように、次々と行うような事態になってしまうことがある、ということなのです。

 こうした意味で、実は、現在の地球上の宗教における、特に信仰を強調するような宗教の人物伝というのは、霊的に見ると、かなり危険な要素があった、ということなのです。

 

 続く・・・

 

Cecye(セスィエ)

2012年1月12日 9:02 PM, キリスト教 / スピリチュアリズム、霊界 / 人生観、世界観



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