その上で、多くの人々が、その後、一番、驚くのは、いったい、何なのか、というと、これを言うと、もう宗教は終わり、というような内容になってしまうのですが、大まかに要約すると、大体、以下のような二つの内容になります。
①一昔前までの地球の主だった宗教は、いろいろと制限や束縛の多かった、その時代の社会状況を反映して、とにかく、制限や束縛の多い時代における「最小不幸社会」の樹立や維持を目指すような内容が多かったために、多くの人々は、死後の天国での生活では、あまりにも自由、寛容で、悦びに満ちているので、非常に驚くことが多かった
まず第一には、これは、現代の地球人には、かなり驚きの目を持って、見られるような話なのではないか、と思われる内容になるのですが、結局、何百年、何千年前に出来た、どの宗教も、その時代には、民主主義や自由主義もなければ、学問も科学技術も、ほとんど未発達の時代であったために、そうした制限や束縛の多い社会の状況を反映して、いかにして、多くの人々の欲望を制限し、調整しながら、そうした社会の状況における、最大幸福社会を目指すか、というか、もっと正確に言うと、最小不幸社会を目指すか、ということを目標としていたようなところがあったのです。
ですから、はっきり言うと、現在の世界にある、ほぼすべての宗教というのは、その宗教の根本的な本質というものを、よくよく見定めてゆくと、何のことはない、「○×□△・・・、という真理によれば、つまり、こういうことは、とにかく、我慢しなさい」、とか、「○×□△・・・、という教えによれば、とにかく、こういうことは、絶対に、やってはいけないし、そもそも、そんなことすら、絶対、考えてもいけない」、などというように、言ってみれば、どの宗教も、表向きの大義名分やスローガンは、ものすごく立派で尊く、意義深そうに見えるのですが、本質的には、一種の「我慢教」、もしくは、「束縛教」のような要素が、必ず、あるようなところがあった、ということなのです。
そして、地上の世界において、そうした「我慢教」や「束縛教」を、熱心にやっていた人々が、死後、いろいろな経緯を経た後に、何とか、天国のような世界に上がれるようになると、とにもかくにも驚くことが、そうした「天国」と呼ばれる世界は、地上の世界とは、全く違って、「とにかく、我慢というものがない」、とか、「とにかく、束縛というものが、ほとんどない」、ということなのです。
ですから、そうした形で、地上の世界で、一生懸命、宗教をやってきた人達が、うまく霊界の天国に上がってこれると、とにもかくにも、「ここでは、多くの人々が、ほとんど何の我慢もせずに生活している」、とか、「とにかく、多くの人々が、宗教的な内容も含めて、ほとんど何の束縛もない生活をしている」、という点で、非常に面食らってしまうようなところがあった、ということなのです(当然のことですが、現代だと、死後の世界になっても、こうした驚きの感覚は、かなり減ってきているようです)。
※これは、別の箇所で、たくさん述べていることなのですが、確かに、地上の世界では、ある程度、お互いに譲り合い、与えるべきものは与え、また、受け取るべきものは受け取る、というような、こうした「我慢教」や「束縛教」の要素は、とても大切なところがあるのですが、ただ、近現代に入ると、学問や科学や政治経済の発達によって、こうした価値観よりかは、どちらかと言うと、多くの人々が、欲しいものは、できるだけ自由に、必要なだけ、幾らでも手に入れられ、また、与えたいものは、できるだけ自由に、無制限に、幾らでも与えられるような、「完全満足社会」や「完全幸福社会」が、精神的にも、物質的にも、実現できるような方向性に、地球全体の社会の潮流が、大きく変化していった、ということです。
Cecye(セスィエ)
2012年1月9日 9:06 PM, おすすめ記事 / キリスト教 / スピリチュアリズム、霊界 / 人生観、世界観