②一昔前のキリスト教では、ものすごく教会の権威が強かったために、もし、何らかの理由で、教会の、ある程度、権威のある人物から、罪人や悪魔扱いされた場合には、その人は、この世のみならず、死後の世界においても、実際に地獄のような世界で、もがき苦しむような事態になることが、非常に多かった
第二には、これも、かなり問題の多い内容になるのですが、キリスト教の信仰には、致命的な欠陥があって、特に一昔前のキリスト教の形態の場合には、その人の罪が許されるかどうか、ということの決定的な権限は、神の側にある、という表向きの建前とは、かなり違って、実質的には、その人の属する教会の神父、もしくは、そうした教会の運営者の側にある、というような宗教システムになっていたために、もし、その人が、生前、何らかの、キリスト教的に見て、「罪」と思われるようなことをしてしまった場合に、かなり強い宗教的な権限の下に、その人に対して、「あなたの罪は、絶対に許されない」、とか、「あなたの罪は、永遠に罰されることになるだろう」、とか、「お前は、サタンのしもべだ」、とか、「お前の心には、デーモンが棲みついている」、などと、教会の、そこそこ権威のある人達から、はっきり断言されてしまうと、もう、その信者としては、この地上の世界においても、また、来世の死後の世界においても、「お前は、絶対に救われない!」と、神に、直接、最期通告を受けたのと、ほとんど同じくらいの精神的な効果があったのです(これと似たような事情は、昨今の宗教でも、よく見られるのですが・・・)。
それゆえ、実際問題として、こうしたキリスト教的制裁、というか、キリスト教会的な制裁を受けた場合には、その人は、生前の段階において、かなりの精神的苦痛を受け続けるのみならず、また、その後の死後の世界においても、かなり長い期間に渡って、そうした非常に真っ暗な「地獄」と思われるような世界の中に閉じこもったまま、出て来れなくなるような事態になることが、非常に多かったようなのです。
つまり、このケースの場合には、本当は、その人自身が、何か悪いことをして、地獄に落ちた、というよりかは、おそらく、私が想像するには、その人自身としては、その人の、その時置かれた状況としては、普通の人間として、わりと素直な意見を言ったり、素直な行動をとっただけであるにも関わらず、それが、たまたま、教会の運営者の逆鱗(げきりん)に触れてしまい、「こんなことを許していたら、教会の運営が出来なくなってしまう」、というような理由が、本当の理由だったにも関わらず、それを言うと、らちが明かなくなってしまうために、それは、しっかりと裏に隠して、表向きは、全く違う理由をでっち上げて、「あなたは、信仰を破っている!」、とか、「あなたは、とんでもない罪を犯した!」、などというような宗教的な宣告をして、その人を、多くの人々の前で、散々、断罪し、この世的にも、精神的にも、あまりにも強く追いつめすぎたことが、本当の原因だったのではないか、ということなのです。
そうすると、この場合、本当に、その人自身が、何か、とんでもない罪を犯したから、地獄に落ちたと言えるのか、というと、そんなことは、全くなくて、実際には、その人が、教会の運営に差しつかえのあるようなことを、あまりにも、あからさまにやってしまったために、それを制止するために、教会の側が、あまりにも、神の名前や、罪や罰の恐ろしさを振りかざしすぎたことが、本当の原因だったのではないか、ということなのです。
このような二つの理由から、そうした、生前、キリスト教徒だった人が、死後、赴くことになる地獄のような世界というのは、本当の地獄であったのか、というと、残念ながら、というか、幸いなことに、それらは、本当の地獄ではなくて、今述べたような二つの理由によって、その人自身の想念が、死後の世界において、勝手に作り出した、一種の幻影、もしくは、仮想現実のような世界であったのではないか、ということなのです。
Cecye(セスィエ)
2012年1月7日 9:02 PM, キリスト教 / スピリチュアリズム、霊界 / 人生観、世界観