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イエスについて Part 3

3、聖書のイエスの物語には、どうしても納得しがたい、幾つかの疑問や間違いがある

 第三には、これも、ちょっと言いづらい話なのですが、昔からのキリスト教の伝説や、最近のスピリチュアリズムやニューエイジの書物などでも、時々、述べられている通り、実は、実際の「イエス」と呼ばれる人物の足跡と、その後のキリスト教で祭り上げられていった、「イエス・キリスト」の話が、結構、大事な所で、大きく食い違っているところがある、ということです。

 ここでは、その中でも、特に重要なところについて、二点だけ触れたいと思います。

 

1、当時のイエスは、普通に結婚し、子供ももうけていたので、結婚やセックスに対して、それほど否定的な考えは、全く持っていなかったと思われるが、彼の死後のその後の経緯で、イエスの教えや奇蹟を重んじて、教勢を伸ばそうとした教会派と、結婚やセックスの秘儀を重んじる霊的秘儀派の二つの派が、連綿と伝わってゆくようになっていった

 まず第一には、これは、よく言われていることなのですが、今日的な視点から見ても、イエスと呼ばれる人物が、当時の時代としては、かなり危険な言動を行っていたことは、確かに事実であるのですが、ただ、彼は、当時のユダヤ教の伝統に則って、普通に結婚し、また、子供も、もうけていた、ということです。

 これは、今日でも、キリスト教の外伝や秘密の伝統として、しっかり伝わってきているようなのですが、実は、当時のイエスと呼ばれる人物は、特段、性的に潔癖というほどの感覚は、全く持っていなくて、そうではなく、当時の社会の常識に則って,普通に結婚もすれば、また、普通に子供も、もうけて、育てていた、ということなのです。

 それでは、その後、いったい、どのような経緯で、そうしたイエスの生涯の話が、実際の話とは違ったものにすり替えられていったのか、というと、これを言うと、驚かれる方も多いのではないか、と思うのですが、当時のイエスの教えには、大きく二つの派があって、一派は、どちらかと言うと、霊的に見た結婚の秘儀やセックスの重要性を、非常に重要と捉えていたのですが、もう一派は、そうした、わりと地味で、すぐに誤解されやすい結婚やセックスの秘儀には、非常に批判的で、どちらかと言うと、イエスの教えや、彼の行う奇蹟の方に、霊的な価値を見いだしていた、ということなのです。

 その後、当時の為政者による、かなり不当なでっち上げの裁判が行われて、イエスという人物が処刑されてしまうと、すぐに、当時のイエスの信派の人達は、分裂状態になってしまい、一方は、普通の人間としての生活を重んじながら、わりと自然な形で、結婚やセックスを重視するような一派となり、また、もう一方は、それよりかは、イエスの教えや奇蹟の方を重視して、もっと急進的な形で、イエスの教えを広めてゆこうとするような一派になっていった、というような、今日には、ほとんど伝わっていないキリスト教の秘史のようなものがあったのです。

 それでは、その後のキリスト教は、いったい、どのような歴史を経るようになっていったのか、というと、これは、今日の目から見ると、かなり不思議な話であるのですが、今日では、「マグダラのマリア」(当時の普通の女性で、特に、ものすごい悪霊憑(つ)きだった、とか、娼婦だった、という事実はないようです)として知られている、当時のイエスの伴侶であった女性は、イエスの死後、彼との間にできた子供を連れて、現代のフランスの辺りまで、逃げ延びてゆき、そこで、現代のキリスト教とは、少し異なる、霊的な結婚やセックスの秘儀を重んじるような、一種の神秘主義的な色彩のキリスト教の一派を、細々と継承してゆくようになってゆきました。

 それから、もう一方の一派としては、今日では、「ペテロ」として知られている人を中心に、各地に、イエスの教えを広めてゆこうとした一派があったのですが、ここで一つ問題が巻き起こるのですが、それというのは、当時のペテロという人を初め、イエスの弟子達には、当時の中東としては、少し学が足りないようなところがあったために、行く先々で、結構、大変な迫害に遭うことが、たくさん続いてしまった、ということなのです。

 そこで、これは、本当は、彼自身としても、あまりやりたくなかったはずなのですが、とりあえず、イエスの教えの最重要なポイントである、神への信仰や愛や知恵や希望の部分さえ伝われば、それをもって、当面は、よしとすることにして、いちいち、いろいろ誤解されやすい結婚やセックスに関する話は、ある程度、控えておくことにしよう、などという具合に、実際のイエスの教えを、若干、伝道のために、実質的に変更して、各地に広めることにしていった、ということなのです。

 その後の経緯は、キリスト教の歴史に詳しい方なら、よくご存知の通りの、大変な悲劇の話が続くことになったのですが、ここで伝えたいのは、本当は、イエス自身の考えとしては、人間として、あまり極端な我慢や不幸を強いることになるような、結婚やセックスの否定というのは、そもそも、全く考えていなかった、ということと、それと、結局、その後のキリスト教の歴史では、教会の公式な態度としては、普通の信者には、結構、厳しく罪の意識や、その償いのような話をして、結婚やセックスに対して、否定的な態度をとることが多かったにも関わらず、そうしたキリスト教の組織の内部では、霊的な結婚やセックスの重要性は、結構、それなりに、しっかりと伝授されてゆくようなところがあったので、多くの人々の単純な思い込みとは、かなり違って、キリスト教というのは、表向きは、結婚やセックスに厳しいけれども、そうした組織の奥や末端の部分では、普通の人々には、あまりよく分からないような形で、霊的な結婚やセックスの秘儀というものが、近代に至るまで、連綿と、しっかり伝わっていたようなところがあった、ということなのです。

 それゆえ、カソリックの基盤が揺らいだ、数百年前の宗教改革ぐらいの時代になると、「いくら結婚や性欲を我慢しても、全然、心からの救いや平安なんて、ないじゃない?」、というような、キリスト教徒の本音が、そのまま、ストレートに表現できるようになり、その結果、それ以降の新教の時代には、牧師であっても、結婚もセックスも、全然、OK、という時代に大きく移り変わってゆくことになるのですが、それもこれも、元をたどると、最初にイエスが説いた教えが、表向きの宗教的な建前で、がんじがらめに固められてしまっている部分と、裏の人間的な本音が、そのままストレートに出ている部分とで、あまりにも、きっちり分けられすぎていることが、原因になっているようなところがあった、ということなのです。

 

 続く・・・

 

 

 追伸

 要するに、信仰や愛をメインにした宗教で、結婚やセックスを否定するのは、本質的に、人間性の根源的な否定につながるので、かなり問題だったのではないか、ということと、そうは言われても、普通の人間には、そんな厳しい戒律は、とてもではないが、守りきれるものではないので、その結果、そうした宗教の表向きの建前と、裏の人間としての本音の部分が、見事に分裂して、いっけん、普通の信者には、かなり厳しい戒律を守らせようとするのだが、裏では、「秘儀」と称する、それなりに、結構、めちゃくちゃ、というか、今日的な目で見ると、わりと自由な形での、この世的、あるいは、霊的な形での結婚やセックスが、普通に行われるような宗教形態になってゆきやすかった、ということです。

 

Cecye(セスィエ)

2011年12月26日 9:03 PM, おすすめ記事 / キリスト教 / スピリチュアリズム、霊界 / 人生観、世界観 / 結婚、家庭



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