5、長い人類の宗教の歴史の中では、古代や中世の宗教団体がものすごい権威を持っていた時代から、主として宗教改革以降の一人一人が宗教経典を手にする時代へ、そして近現代以降は、一人一人の普通の個人が、自分自身の生身の体験として、いろいろな宗教体験やスピリチュアルな体験を得る時代に大きく変化していった
第五には、これはそうした宗教の歴史を長い目で捉え直してみると、ほぼ明らかに言えるような事実なのではないかと思うのですが、古代から中世にかけて非常に長い期間に渡って、当時は書物自体がものすごく貴重だったことと、それと文盲の人々が非常に多かったこともあって、たいてい宗教というのは、一部の司祭のような人々だけがものすごい権威を持っているような「教会主義」というか、「宗教団体主義」、つまり「すべての真理は経典に書かれているので、そうした経典を正しく理解し、解説することの出来る正式な宗教司祭の言う通りに、信者は、何から何まですべて従ってゆくのが最も正しい生き方なのだ」と考えられているような時代が非常に長く続いてきたということなのです。
それが近現代に入って、主として宗教改革以降の時代に入ると(時期は地域によって異なりますが・・・)、そうした宗教団体の権威自体が大きく揺らいだ上に教育の普及や印刷技術の恩恵で、多くの人々が直接そうした宗教経典に触れられるようになっていったので、時間と共にそうした宗教団体の権威や役割というのはどんどん低下してゆき、そして、そうした宗教団体よりかは、どちらかと言うと宗教経典自体の方を多くの人々が信奉してゆくような、本当の意味での「経典主義」、もしくは「経典崇拝」の時代に移っていったということです。
そして、さらに時代が下って近現代に入り、交通や通信技術の発達によって、世界中の宗教の様子を誰でもある程度、自由に知ることのできるような時代になると、今度は単に宗教経典を読んだり、覚えたりするだけでは多くの人々は、だんだん納得が行かなくなるようになってゆき、そして普通の仕事や勉強をする傍ら、いろいろな祈りや瞑想の実践をしてみるとか、いろいろなスピリチュアルなセミナーを受講してみるなどというように、多くの人々が直接自分自身の体験でもって、そうした宗教体験やスピリチュアルな体験をしてみたいと考えるような時代に大きく移り変わるようになっていったということなのです。
つまり、これまでの数千年に渡る宗教の歴史というのは、宗教団体自体がものすごくパワーを持っていた「宗教団体主義」の時代から、多くの人々が直接、宗教経典を手にするような「宗教経典主義」の時代へ、それから、そうした宗教経典を単に読むのみならず、それを自分自身の仕事や生活の一部に積極的に取り込んでゆくような「宗教個人主義」というか、「霊的経験主義」の時代に大きく移り変わるようになっていったということなのです。
こうした観点から考えてみると、実は今日の世界のような状況においては、たとえ聖書のような非常に権威のある宗教経典であったとしても、「その内容を一から百まで、すべて完全に信じきればいい」とか、「これを読むこと自体が、ものすごく大切なことなのだ」とか、「この教えの通り信じていれば、必ず天国に行けるのだ」というような考え方は、もうすでに時代遅れになってきており、そうではなく、「たとえ聖書のような宗教経典であっても、できるだけ現代人が最も幸福となり、利益を得られるような現代的な読み方や解釈を行うようにするべきだ」とか、「単に聖書を読むだけでなく、できれば昔の聖人の体験した宗教的な悟りやスピリチュアルな体験そのものを、自分自身の身で少しでも体験できるように努力してみる」とか、「単に信じるだけでなく、もう少し主体的に自分自身の頭で考えながら、そうした真理のエッセンスや具体的な活用の仕方を考え直してみる」とか、さらには「自分の信じている宗教以外の宗教や霊的な書物から、さらに自分の理解や気づきが深められるような学びがないか、よくよく学び直してみる」などというような新たな取り組みがとても大切になってくるのではないか、というように私は率直に感じております。
聖書について私の考えていることを大雑把に述べると、大体、以上のような五つの内容になります。
Cecye(セスィエ)
2011年12月18日 9:12 PM, キリスト教 / スピリチュアリズム、霊界 / 宗教、道徳 / 歴史