3、歴史教育において、古い物について、教えることは全く構わないのだが、そこで、どさくさに、そうした古い物に関する一定の権威や一定の美の基準を押し付けようとすることは、単なる個人の思想・信条の自由の侵害以外の何物でもないのではないか
第三には、これも、よく考えてみると、ほとんど意味不明なのですが、いくら、その国の歴史が古いからといって、何でもかんでも古い物の絵や写真を載せては、「これは、○○という国宝級のものすごい仏像です」、とか、「これは、平安時代に造られた最高の美術品です」、などと教えて、それを受け入れた人を勉強のできる人、それを受け入れられない人を勉強のできない人などと、本当は、国家が勝手に決めつけてはいけないようなところがある、ということなのです。
その理由は、簡単なのですが、民主主義国としては、国民全体の利益に反しない限り、一人一人の市民は、いかなる考え方を持っても、また、いかなる行動をしても構わない、というような原則になっているので、歴史教育として、そうした過去の遺跡や美術品のようなものの存在を教えてもらうことまでは全然構わない、と私も思うのですが、ところが、その後に、「それでは、これは、国宝級の仏像だということを認めますね」、とか、「それでは、これは、最高に美しい美術品だということが、よく分かりましたね」、などというように、まだ、よく世の中のことも知らない子供達に対して、国家が勝手に提示している一定の権威や一定の美の基準を教えようとすることは、本当は、個人の思想・信条の自由の侵害以外の何物でもない、ということなのです。
つまり、そうした古い物があることを教えることまでは、国家としては、ある程度、許容されるけれども、そこで、どさくさに、「それでは、これは国宝、つまり、国民全員の宝であることを認めますね」、とか、「それでは、この美しさを認めますね」、などと強要することに関しては,本当は、基本的人権の侵害以外の何者でもない、ということなのです。
ですから、歴史の大まかなあらすじ自体を知ることには、それほど問題ないのですが、それを乗り越えて、個人個人が、「何を素晴らしいと思うか」、とか、「何を美しいと思うか」、ということまで、どさくさに強要することに関しては、本当は、かなり問題がある、ということなのです。
※それと、「国宝」や「文化財」のようなものに関しては、基本的に王制や独裁制の国では、そうした権力者や、彼らの意向を組んだ一部の特権階級の人々が勝手に決めて、国民全員の宝物のように扱うのが恒例であったのでしょうが、現在の日本のような民主主義の国では、基本的に国民すべての合意(最低でも過半数の同意は必要です)に基づいて、国宝であれば、すべての国民の宝、それから、文化財であれば、すべての国民の文化的な財産として扱う、というのが、本当の立場になります。
そうすると、どこの誰とも、よく分からないような人達が、大多数の国民の同意も得ることなく勝手に決めた上に、よく考えてみると、特定の宗教や団体の保護に当たるのではないか、と思われるような「国宝」や「文化財」の指定というのは、現在の日本のような民主主義の国では、個人の思想・信条の自由の侵害等、さまざまな自由権の侵害に当たるので、本当は、基本的に絶対にやってはいけないことなのではないでしょうか。
Cecye(セスィエ)