まず最初に、結論から言うと、はっきり言って、東洋だと、仏教や神道や儒教等で行われている先祖供養のような宗教儀式というのは、霊的には、ほとんど意味がないのではないか、ということです。
その理由としては、大きく四つあります。
1、たとえ、何回、先祖供養の儀式をしたとしても、それによって、「先祖が、実際に救われた」、「天国に上がった」、というような話は、現実には、ほとんど聞いたことがない
まず第一には、これは、多くの人々の経験から見て、ほぼ確実に言えることなのではないか、と思われる内容になるのですが、はっきり言って、「先祖供養」と呼ばれる儀式をしたとしても、それによって、「先祖が、本当に救われた」、とか、「先祖が、天国に上がった」、というような話は、現実問題として、ほとんど聞いたことがない、ということです。
2、たとえ、相手が、亡くなった人々だからと言って、ほとんどの日本人にとって、全く意味不明の漢文のお経を読んだところで、霊的な救済など、あり得るはずないではないか
第二には、これも、よく考えてみると、当たり前のことなのではないか、と思われる内容になるのですが、これまでの日本のように、先祖供養の際に、ほとんどの日本人にとって、全く意味不明の漢文の読経のようなことを行ったとしても、まずは、もうすでに亡くなった人々の大半は、そうした漢文の経文の意味が、全く分からないのは、ほぼ確実であるということと、もし、そうした亡くなった人々が、よく言われる「霊界」の常識のように、そうした経文を読み上げている僧侶の心の中を、そのままストレートに読み取れたとしても、現実には、たいていの僧侶は、そうした経文を読む時に、そうした経文とは、全く関係のない内容のことばかり考えていることが多いようなので、おそらく、そうした僧侶の読経というのは、霊的には、ほとんど意味がないのではないかと思われる、ということです。
3、霊界では、それぞれの人が、それぞれの好みや関心に応じて、全く別の生活をしていることが多いので、現実問題として、十代もさかのぼれば、数千人、数万人に及ぶかもしれない先祖や親族の霊達が、名前を呼んだくらいで、一瞬で、一同に会して、集まってくるなんて、あり得るわけないではないか
第三には、これは、あまり言われない内容になるのですが、霊界の実際の様子を調べてみても、私の知る限り、たくさんの先祖の人々が、まとまって、生活しているような霊界なんて、全く聞いたことがないので、現実問題として、そうした、何でも「先祖」という具合に、ひとくくりに、まとめ上げるような人間の分類なんて、全く不可能なのではないか、ということです。
つまり、霊界というのは、それぞれの人の好みや関心が、そのままストレートに現れて、その人のいる場所を決めたり、その人の日頃の生活の様子を決めてしまうようなところがあるので、現在の私達の生活を見れば、よく分かるように、たとえ、家族や親族であっても、仕事や生活もバラバラなら、好みや趣味もバラバラ、という具合に、霊界にいる、それぞれの人々の好みや関心なんて、たとえ、同じ血のつながった先祖や親族であったとしても、全く、十把一絡げ(じっぱひとからげ)に、まとめきれないようなところがあるのです。
つまり、こうした状況から察するに、たとえ、お寺や神社などで、一生懸命、「○○家代々」などと、先祖の名前を呼んだところで、はっきり言って、十代もさかのぼれば、数千人にも、数万人にも及ぶかもしれないような、先祖や親族の人々の霊達が、瞬く間に全員集合して、子孫の所に現れてくるなんて、現実的に見て、全く不可能なのではないか、ということなのです。
Cecye(セスィエ)
2011年7月23日 9:22 PM, Q&A / コラム / スピリチュアリズム、霊界