4、多くの人々が、より幸福で楽しい生活をするためには、いったい何を自由に行動し、いったい何を我慢すればいいのか、ということを権力者の側からでなく、多くの人々の心の内面の良心や罪悪感の働きによって、あまり社会的に問題が起きないように、うまく制限してもらえるように考案され、工夫されてきたのが、現在残っている宗教のそもそもの起源だったのではないか
第四には、これは、もっと直接的な話になってくるのですが、要するに多くの人々が幸福で楽しい生活をするために、いったい、どこまで我慢して、いったい、どこから我慢せずに好き勝手にやるのがいいのか、ということを多くの人々から、いろいろと反発を買われそうな権力や社会制度の側からでなく、そうではなく、それぞれの人々の心の内の良心や罪悪感に訴えかけることによって、多くの人々があまり対立しないで、できるだけ仲良く過ごしてゆけるようにいろいろ、それらしい理屈や話や決まりを作り上げては改善され、確立されていったのが、昔から多くの人々が信じ、受け入れさせられてきた宗教であったのではないか、ということなのです。
さて、これは現代に生きる私達にとっても非常に身近な話になるので、もう少し身近な話を用いて説明したいと思うのですが、たとえば、ここに周りに全く誰もいないような状況において、目の前にものすごく、おいしそうなケーキがあるとしたら、「その時、あなたは、いったいどうしますか?」というのが、こうした我慢と欲求の問題を考える時には、一番分かりやすい質問になってくるのです。
この時に多くの人々が考えそうな考え方としては、大体、大きく次のような四つのことが考えられます。
1、多くの人々は、親のしつけや学校教育や、さまざまな社会経験の積み重ねから、次第に自分の本音とは全く違う判断や行動を、まるで当たり前のように取るようになってゆく
まず第一には、「目の前にうまいものがあって、誰のものだか全然分からないし、しかも誰も見張っていないなら、これは、もう自分が食べるしかないな」というような考え方になるのですが、実は多くの人々の予想と違って、人間が、何も世の中のことを知らない赤子の段階には、ほぼすべての人が、こうした判断をしたはずであるにも関わらず、その後、多くの人々は、親のしつけや学校教育や、さまざまな社会経験の積み重ねによって、これとは違う、いろいろな判断をするようになったのは、ほぼ間違いのない事実であるということです。
2、多くの人々の単純な思い込みとはかなり違って、よく考えてみると、多くの人々の宗教的、道徳的な良心や罪悪感というのは、それまでの人生における不快な人生体験の積み重ねによる単なる刷り込みに過ぎない
第二には、「いや、これは、きっと誰かのケーキだから、たとえ今、誰も見ていなくても、自分は食べるべきでない」というような考え方になるのですが、この場合は、自分自身の直接の意思としては、おそらく、「うまそうだ。今すぐ食べたい」であったにも関わらず、そうではなく、その直後に「いや、昔、そう思って食べたら、親にこっぴどく怒られた」とか、「こういう時に食べると、後でよく文句を言われたりするんだよな」という具合に、実は自分自身のそれ以前の体験において、自分の意思のままに行動すると誰かに怒られたり、文句を言われたりするなどというような何らかのマイナスの体験によって、ほぼ反射的に無意識のうちに自分自身の欲望を押さえ込むような判断をしたということです。
3、「ちゃんとした手続きさえ踏んでいれば、何でも自分の物にして良いのではないか」というような考え方があるのだが、多くの人々の単純な予想とはかなり違って、こうした自分自身の「所有」に執着する人々が、彼らの身分や財産を守るために一生懸命、人々に信じさせようとしたのが、他の人の物を取ったり、羨(うらや)んだりしてはいけない、というような宗教思想だったのではないか
第三には、「このケーキの持ち主が、どこかにいるか、大声を出して聞いてみて、それから周りに誰も見ていないかどうか、よく確認した上で、もし大丈夫なら腹も減っていることだし、自分が、ありがたくいただくことにしよう」というような考え方になるのですが、この場合は、少し手順が複雑になっているのですが、要するに、それまでの自分の体験から考えてみるに、こうした場合には、その物の持ち主が、自分の物であることをはっきりと主張していなくて、その上、そうした物を見張っている人もいない場合には、自分が欲しい場合には、別にもらっても構わないのではないか、というような考え方になってきます。
実は、ここが多くの人々の運命の分かれ目になっていて、こうした考え方ができると、この世界では昔であれば、多くの人々の中でも税を取られる側の一般庶民ではなく、税を取る側の支配者に、また現代であっても普通のサラリーマンではなく、わりと抜け目なく商売のネタを見つけたり、利益を確実に上げる起業家や、会社で出世する側になれるはずであるということになるのですが、ところが不思議なことに、たいていの宗教では、「目に見えない所で神様や天使がしっかり見張っていて、死んだ後に天国行きか、地獄行きかの判定材料にするぞ」とか、「良いことをした人には、後から良いことがたくさん起きるが、悪いことをした人には、後から悪いことがたくさん起こるぞ」などというように散々脅かしていることが多いために、私の見る限り、10人中、7〜8人(昔であれば、おそらく10人中、ほぼ全員)は、そうした際には、「自分は宗教的、あるいは、道徳的に正しい方を選ぶ」と思って、たとえ自分が、喉から手が出るほど欲しいものであったとしても、しっかり我慢して、何もしないことが多いように見受けられるのです(多分、私もかな〜〜〜)。
しかしながら、これは、よくよく根本まで考え直してみないとよく分かりづらいのですが、昔々のその昔、この世界にまだ「所有」(これは私のものだから、誰にもやらない、使わせないというような考え方)というような概念が、まだなかった頃、みんなが仲良く生活している所に突然、どこの誰かもよく分からないような人々がバタバタとやってきて、それまで誰もが、「昔からある自然のものだ」とか、「これはたくさんあるし、みんなで好きに遊んだり、利用したりすればいいじゃない」などと思っていた大地や草木や動物や石ころなどに対して、次々と「今日から、これは俺のものだから、ここに住むからには、俺の言うことを聞け」とか、「この森や川や湖は私達のものだから、ここにずっといたいなら、お前たちは食べ物を探して、私達に差し出しなさい」とか、「ここの動物を獲るには俺の許可がいるのに、お前は、それを無視しているので、今すぐ見せしめのために、お前を鞭打ちにする」とか、「あの向こうの森の人間は、いつまで経っても私達の指図に従わないので、今すぐ武器を携えていって、悪魔として痛い目に遭わせてきなさい」などという具合に、いろいろな元々ある自然の物に対して、片っ端から所有権を主張しては、それで多くの人々を自分達の言う通りに従わせようとしたり、あるいは、それで従わない場合には、罰しようとしたりした人々というのは、いったい、どういう種類の人々であったのか、ということを冷静に考え直してみるとよく分かるのではないか、と思うのですが、これはどう考えてみても、先ほどの分類から見ると、あまり宗教的、道徳的とは思えないような人々であったのは、ほぼ確実であるにも関わらず、なぜかその後、そうした人々の子孫が中心になって、多くの人々に対して、そうした宗教的、あるいは、道徳的な生き方を勧めようとする立場についているのは、冷静に考え直してみる限り、かなり不思議、というよりも、ほぼ完全に矛盾しているとしか全く言いようがないのではないか、ということなのです。
つまり、こうしたケースの場合、はっきり言うと、ちょっと宗教的、倫理的に問題のある人達が、多くの人々に自分達と同じような行動をされると、自分達の身分や財産が危うくなるために、その後、多くの人々に対して、まだ子供のうちから、そうした彼らのような行動は絶対しないように心から思い込ませるために考案したのが、そうした宗教的、道徳的生き方を多くの人々に勧める宗教だったのではないか、ということなのです。
Cecye(セスィエ)