日本では、よく古来から「言霊(ことだま)の幸ふ(さきわう)国」と呼ばれていたり、また聖書にも「神は言葉で世界を造られた」とか、「始めに言葉ありき」というような記述が見られるので、現代の世界でも信仰を持つ人の中には、こうした一種の言霊信仰のようなものを信じている人は多いようなのですが、今回は、こうした言霊信仰についての見解を載せたいと思います。
1、言霊信仰に基づく国と、そんな言霊信仰なんて全く信じずに軍備の増強や経済力の向上に努めていた国が、ひとたび戦争になった場合には、ほぼ確実に最終的には、軍備の増強や経済力の向上に努めていた国の方が勝ったはずなので、現実問題としては、日本であっても世界のどの国であっても、常に言霊信仰のようなものは、一種の迷信のような扱いを受けることの方が遥かに多かった
まず第一には、もし、この言霊信仰を、実際にすべて完全な真実のように受け入れて生活した場合には、「これを言うと、こうなってしまうので、これを言いたいのだけれど、実際には、全然言うことができない」とか、「この言葉を言えば、この行為をしたことと全く同じことだから、今後、この行為はしなくてよい」などというように、実際問題としては、現代であっても、また古代や中世であっても、こんな言霊信仰に基づく生活は、現実にはほぼ完全に不可能だったのではないかということです。
それというのは、これはそうした昔の時代に思いを馳せて考え直してみれば、誰でもよく分かるのではないかと思われるのですが、たとえば、こうした言霊信仰を持っている国と、そうではなく、そうした言霊なんて完全に迷信であると割り切って、軍備の増強や経済力の拡大に力を入れている国の二つの国があった場合には、ひとたび戦争にでもなれば、最初はある程度ごちゃごちゃとした混乱状態が続くかもしれないのですが、ある程度時間が経つうちには、まずは、ほぼ間違いなく、そうした言霊信仰の国ではなく、そうした言霊なんて全く信じずに軍備の増強や経済力の向上に努めていた国が、最終的な勝利を手にするのは、誰が見ても、ほぼ明らかなのではないかと思われるからなのです。
実際、先の戦争でも言霊や身分制(もしくはエリート主義)の伝統を持つ日本に対して、そんな言霊や身分制とは全く対極の実学と能力主義(もしくは平等主義)に徹したアメリカの方が、最終的には、ほぼ圧倒的と言ってもよいほどの大勝利を収めているので、これとほぼ同じようなことが日本の古代や中世においても、おそらく何度も何度も繰り返し起きたのではないかと思われるのですが、実際、その通りで戦国時代の織田信長の急激な躍進を例にとるまでもなく、日本の古代や中世においても、そうした言霊信仰の人々の集団と、そうした言霊なんて全く信じないような人々の集団が勢力争いをした場合には、最終的には、ほぼ確実にそうした言霊信仰を奉じる人々の集団ではなく、そうした言霊なんて全く信じずに実学や能力主義を採用した人々の集団が、最終的に天下を取るような結果になることが非常に多かったということなのです。
それゆえ、こうした事実から推測する限り、昔の言霊信仰のようなものは外国と言わず、日本と言わず、常に一種の迷信のように認識されていたというのが、実際の現実に近かったのではないかということなのです。
Cecye(セスィエ)
2011年7月2日 5:11 PM, おすすめ記事 / キリスト教 / スピリチュアリズム、霊界 / 宗教、道徳 / 歴史 / 神道