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霊的宇宙的科学から見た存在論―「認識は、即、存在である」

 今回も、前回に引き続き、前に書いた文章からの抜粋になります(途中からで、分かりづらい方は、もう少し前の所から、お読みになることを勧めます)。

 

霊的宇宙的科学から見た存在論―「認識は、即存在である」

 今度は、これを、もう少し別の側面から考えてみたいと思うのですが、これは、霊的、あるいは、宇宙的な科学によく通じていないと、なかなか、よく分からないような内容になるのですが、実は、こうした霊的、あるいは、宇宙的な観点から見ると、「そこに、一人の人間(生き物)がいる」、ということと、「そこに、一つの感情や意志がある」、ということは、ほとんど同義、つまり、霊的、あるいは、宇宙的には、ほとんど同じ状態である、というように認識される、ということなのです。

 つまり、霊的、あるいは、宇宙的な波動科学の認識としては、「そこに、一人の人間(生き物)が存在する」、ということと、「そこに、一つの感情や意志がある」、ということは、全く同じ状態として、認識される、ということなのですが、これは、一体、どういうことを意味しているのか、というと、前にも述べたように、この宇宙の本質というのは、言ってみれば、この宇宙の創造主の意思によって投影されている、まるでバーチャルリアリティーのような世界の成り立ちになっているので、それゆえ、そうしたバーチャルリアリティーのような一種の仮想現実の世界の中では、「そこに、何らかの存在が存在している」、ということは、それは、結局、別の言葉で言い換えると、「そこに、何らかの感情や意志を持った、「認識」する媒体が存在している」、ということと、何ら変わりない、ということになってしまうのです。

 その結果、この宇宙の現実としては、一体、どのような状況が起きてくるのか、というと、基本的に、「そこに、何らかの感情や意志を持った存在」、つまり、「何らかの認識ができる存在がいる」、ということは、それは、すなわち、「そこに、何らかの実体のある存在が存在している」、つまり、「何らかの人間、あるいは、生物がいる」、ということと、全く同じ意味になってしまう、ということなのです。

 これは、デカルトの言う、「我思う、ゆえに我あり」、というような人間の存在認識、つまり、自分が感じたり、考えたりすることができる、ということ(つまり、認識できること)が、すなわち、自分自身が存在することと、全く同じである、つまり、「認識が、即、存在に直結する」というような人間、あるいは、生命の存在論というものと、基本的に全く同じである、ということになるのですが、ただ、数百年前のデカルトのように、当時のヨーロッパのような、ほとんどお仕着せのような一律の宗教的ドグマ(教義)から切り離して、純粋に物質的な観点からのみの哲学や科学の構築を主張したような立場とは、全く違って、現時点で問題になっているのは、こうした物質世界の延長線上に存在している、非常にたくさんの並行世界や次元世界の問題であるので、こうした非常にたくさんの並行世界や次元世界の存在というものを前提に、そうした「認識が、即、存在である」、というような存在論を受け入れると、こうした波動科学的な認識に立つ限り、「そこに、何かを感じたり、考えたりしているような一人の人間(生き物)がいる」、ということと、「そこに何かを感じたり、考えたりする認識が存在している」、ということは、霊的、あるいは、宇宙的に見る限り、基本的に、実体としては、全く変わりないものである、というように認識される、ということなのです。

 

 続く・・・

 

Cecye(セスィエ)

2011年6月14日 9:01 PM, アセンション・シリーズ 4



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