4、たいていの人は、日本の学校生活を送ると、「やりたいことがあっても、我慢する」、「できることがあっても、しない」、というような、自ら望んで、自主的に、自分の考えや行動を制限するような人生観や世界観を押し付けられるようなところがあるので、これは、客観的に見る限り、それぞれの個人の才能や能力を伸ばすための教育というよりかは、実質的には、かなり巧妙な手段による、一種の自主的な監禁生活の訓練としか、全く言いようがないようなところがある
第四には、これも考えてみると、非常に不思議な話なのですが、現在の日本の学校運営であると、学校のクラスというのが、言ってみれば、子供、というか、当の本人には、一切、分からないような、国家による合法的な牢獄への投獄のような実態になってしまっている、ということです。
つまり、現在の日本の学校運営であると、たとえ、どんなに優秀な子供も、また、どんなに勉強のできない子供も、すべて一緒くたにして、学校の決めた同じクラスに閉じ込めてしまうと、とにかく、学校の授業の間は、その中から、原則、一切、出れないばかりか、勉強が退屈しても、上のクラスには行けず、また、勉強が分からなくなっても、個人指導も受けられないばかりか、下のクラスに移動することもできず、また、どんなに自分が大好きな教師や友人や兄弟姉妹がいても、よそのクラスであれば、そのクラスに行くことができないばかりか、また、どんなに自分が大嫌いな教師や人間がいても、そのクラスからは、絶対に出られない、などというように、これは、言ってみれば、国家による、当人には、全くよく分からないような巧妙な手段による、一種の監禁生活に過ぎないのではないか、ということなのです。
こうした学校運営による、しつけと刷り込みは、こんなものになります。 「自分が、何かやりたいことがあっても、自分より偉い人間が禁止している場合には、絶対にやれないと、すっかり思い込んでしまう」、とか、「自分の好きな人に会ったり、自分の嫌いな人から逃げることは、全然、出来ないと、心の底から、すっかり思い込んでしまう」、とか、「自分が、分からないことを当たり前だと思ってしまい、いろいろなことを、積極的に調べたり、知ろうとするための努力なんて、全然、やりたくなくなってしまう」、とか、「たとえ、自分が出来ることでも、上の人を乗り越えてまで、それをやることは、何となく、いけないことみたいな気がしてくる」、とか、「誰かが、自分達を好き勝手に支配するのは、当たり前のことなんじゃないか」、というような、私達日本人によくありがちな感覚や考え方になってくるのですが、はっきり言って、これは、民主主義国の市民の考え方ではなくて、そうではなく、一昔前の王制や貴族制の世の中の臣民や奴隷の考え方そのものなのではないか、ということなのです。
つまり、こうした観点から言って、日本の学校教育というのは、言ってみれば、一人一人の人間が、その人としては、全く無意識のうちに、自ら望んで、自主的な形で、ありとあらゆる制限生活、というか、一種の監禁生活を送るためのトレーニングそのものなのではないか、ということなのです。
そうした教育の結果、国や政治についての物の見方も、「誰かが決めた決まり(法律)や伝統は、基本的に、絶対に変えてはいけないし、また、普通、変えられないものと、いつの間にか、まるで当たり前のように、深く思い込んでしまう」、とか、「たとえ、どんなに自分が、大嫌いな無能な人であっても、党や政府の指導者には、とにかく、黙って、ついてゆかなくてはならない」、とか、「政治家や役人が、変なことをするのは、当たり前のことなので、どこの誰にも、絶対、止められないし、また、全然、変えられないのが、普通のことなのだ」、とか、「国や政治のことなんて、普通の人には、ものすごく難しいから、絶対、分かるわけないし、また、誰がやっても、絶対、変わるわけない」、とか、「政治家や役人が、おかしなことをしても、みんなで徒党を組んで、首相官邸や国会を取り囲んで、すぐに止めさせるなんてことは、全く考えることすら出来ない」、などというように、普通の一般市民が、みんなで議論しながら、自分達の国や地域の理想の政治を作り上げてゆく、というような民主主義の政治というよりかは、もう、どんな人間が、どんな目的のために、国家を操っていようが、普通の一般市民は、全く、おかまいなし、というような、はっきり言うと、典型的な衆愚政治のような状況に、ほぼ半永久的に陥ってしまいがちであった、ということなのです。
Cecye(セスィエ)