今回も、前回に引き続き、前に書いた文章からの抜粋になります(途中からで、分かりづらい方は、もう少し前の所から、お読みになることを勧めます)。
自分自身や外部の世界に対するリアリティーの獲得を巡る戦い
こうした全く何もないような虚無の世界の中にあって、自分自身の存在のリアリティーや、自分の周りの世界の存在のリアリティーというものを、まるで飢え渇いた動物のように、心の底から、猛烈に渇望し、欲求するような感覚というのは、今日の私達を取り囲む、この世界のような、自分も周りの世界も、非常に、ありありとしたリアリティーに満ち溢れた世界の生活の中では、実際、なかなか、よく分かりづらいようなところがあるのですが、実は、今日ただ今も、こうした究極のリアリティーを巡る戦い、というか、競争というのは、まだまだ、えんえんと続き続けているのであって、その結果、私達の周りの世界に生じているが、一方は、この宇宙の創造主が、現在も、私達に与えようとしているような、幸福や恍惚といった「光の世界の現実」なのであり、また、もう一方が、いわゆる、偽創造主や悪魔がもたらそうとしているような、苦痛や悲しみといった「暗闇の世界の現実」である、ということなのですが、それもこれも、そうした自己存在のリアリティーや、周りの世界の存在のリアリティーというものを、一体、どのように認識するか、ということに関する考え方や方法論の根本的な違いに過ぎない、ということなのです。
つまり、一方の、この宇宙の創造主の側は、自分も、他の存在も、できるだけ、最高の幸福を感じられるようなリアリティーを得たり、与えたりできるような考え方や手法をとろうとするのに対して、一方の反創造主の側は、破壊や略奪を通して、他の存在の幸福を、積極的に踏みにじることによって、自分のみの快感や喜びさえ感じられれば、それでいい、というような、他の存在の苦痛や不幸を前提とするような、非常に我がままで、勝手な自分本位のリアリティー獲得のための考え方や手法をとろうとする、ということであったのです。
このように、自己存在のリアリティーや、自分を取り巻く周りの世界のリアリティーを、しっかりと獲得する、ということは、実は、この宇宙における、すべての存在、というか、すべての生命の非常に根源的な願い、というか、非常に強い衝動である、ということが言えるのですが、そうした生命としての非常に根源的な願いや、強い衝動を実現するための手段として、この宇宙の創造主や、彼から生まれた光の生命達というのは、基本的に、自分達自身の力でもって、何かを創造したり、何かを与えたりすることだけで、十分に、それらを非常に幸福な感覚でもって、堪能(たんのう)することができるのですが、それとは、対照的に、そうした反創造主に当たるような暗闇の存在達というのは、常に何かを破壊したり、あるいは、常に何かを奪って、自分のものにするようなことをしていないと、十分に、そうした自分自身のリアリティーや、周りの世界のリアリティーというものを感じられないようなところがあった、ということなのです。
Cecye(セスィエ)
2011年6月11日 9:07 PM, アセンション・シリーズ 4