今回も、前回に引き続き、前に書いた文章からの抜粋になります(途中からで、分かりづらい方は、もう少し前の所から、お読みになることを勧めます)。
宇宙の創造の過程と、宇宙の二大幸福原理―光の世界の幸福観と暗闇の世界の幸福観
こうした説明は、少し抽象的なので、よく分かりづらい方もいるのではないかと思うので、もう少し具体的に説明してみたいと思うのですが、要は、この宇宙が創造される前にあった世界、つまり、宗教や神話などで、よく天地創造(地球だけでなく、この宇宙の創造に関しても、ほとんど同じなのですが)の前にあった、と説明されているような「カオス」の世界というのは、とにもかくにも、真っ暗で、だだっ広くて、ごちゃごちゃした、まるで真っ黒い、もやもやとした煤(すす)の煙の中のような世界であった、ということなのですが、そうした世界の中にあった一粒の煤のような存在(この宇宙の創造主の前身の姿の一つ)が、やがて、意識として目覚めてゆき、「自分とは、一体、何なのか?」、そして、「自分の周りの世界とは、一体、どのようになっているのか?」、ということを知りたくて、いろいろな試行錯誤を繰り返すうちに、だんだん、できあがってきたのが、実は、現在の宇宙であった、ということなのです。
そして、そうした過程において、やがて、この宇宙の歴史の必然として、そうした創造主の立場とは、全く正反対の存在が、その宇宙の未来に登場し、そして、そうした創造主による、この宇宙の創造ということに対して、常に真っ向から妨害し、邪魔するような行為を始めるようになっていった、ということなのです。
それゆえ、実は、この宇宙の歴史というのは、常に、次のような二つのサイクルの繰り返し、つまり、この宇宙の創造主が、何かを創ると、それを待ち構えておいて、反創造主(いわゆる、偽神や悪魔のような存在)が出てきては、それを即座に壊したり、なし崩しにしたりする、とか、あるいは、この宇宙の創造主が、何かを分け与えると(たとえば、生命を創造したりすると)、それを待ち構えておいて、すかさず、反創造主が出てきては、それを奪えるだけ奪う、というような歴史のサイクルの繰り返しになってしまいがちであった、ということなのです。
実は、こうした行為の繰り返しというのは、この宇宙における根本的な快楽というか、喜びと深く根付いているのであって、それというのは、これは、私達人間の身近な感覚として、考え直してみると、非常に分かりやすいのですが、つまり、何かを新しく創造したり、誰かの役に立つようなことをすることも、非常に楽しいけれども、その反対に、これは、あまり推奨できるような幸福のあり方とは言えないのですが、時には、何かを壊したり、何かを取ったりした時にも、楽しく感じるようなところがある、ということからも、よく分かるように、実は、この世界における根源的な楽しさや悦びの感覚としては、「光の世界の幸福感」、つまり、自分が、能動的に、新しく何かを創り出したり、何かを分け与えたりする時に感じるような幸福感の世界と、その反対に、「暗闇の世界の幸福感」、つまり、他の人々や生き物達から、何かを奪ったり、何かを壊したりするような時に感じるような快感や満足感(別に行き過ぎなければ、基本的に、それほど問題ないのですが)の大きく二種類の幸福感の世界が、この世界には、存在している、ということなのです。
つまり、前者が、自分も、他の存在も、なるべく一緒に幸福になるような方向性を志向しているのに対して、後者の方は、他の存在の幸福を踏みにじってでも、自分だけが、幸福になれるなら、それでいい、というような、かなり自分本位の方向性を志向している、ということになるのですが、要は、このような宇宙の二大幸福原理に基づいて考えてみた場合、この宇宙の創造主は、基本的に、前者のような「光の世界の幸福感」を志向するのに対して、それに敵対する反創造主のような存在達は、後者のような「暗闇の世界の幸福感」を志向するような立場をとることになった、ということなのです。
その結果、この宇宙においては、一体、どのようなことが起きたのかというと、これは、非常に悲劇的な話になるのですが、この宇宙の創造主であっても、当然、個人として、幸福になりたい、というような希望を持っていたはずなので、そうした希望を満たすために、もともと真っ暗で、何もかもが、ごちゃごちゃと大混乱していたようなカオスの世界の中に、ひたすら創造力を駆使しては、次々と、さまざまな生命や存在達を創っていったわけなのですが、そうした創造物を、本当に、片っ端から壊したり、盗んだりするような反創造主というか、根っからの泥棒や破壊者のような存在達と、この宇宙の創造主は、この宇宙の最初の創造の時点から、どうしても敵対関係を持たざるを得なくなってしまった、ということなのです。
そして、そうした経緯の中で、反創造主のような暗闇の存在達というのは、彼ら自身の中の焼けつくような自己存在のリアリティーへの欲求や、自分を取り巻く外部の世界のリアリティーへの欲求の獲得手段として、常に、そうした創造主自身や、あるいは、彼の創造した生命や存在達を、本当に、片っ端から破壊したり、あるいは、彼らの中に食べて、取り込むようなことをしていないと、彼ら自身としては、本当に、一瞬も生きてゆけない、というくらいの、ものすごい渇望感や飢渇感に襲われるようになっていった、ということなのです。
Cecye(セスィエ)
2011年6月10日 9:02 PM, アセンション・シリーズ 4