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現在の地球の主だった宗教は、創造主や光の存在達の権威を利用して、多くの人々を縛り、操るための単なる支配の道具になっている Part 7

3、冷静に論理的に、この世的な知識と理性に基づいて、考え直してみる限り、キリスト教や浄土教(阿弥陀信仰)で説くような宗教的救済は、現実には、全く不可能な話である

 第三には、これも非常に問題の多い話なのですが、キリスト教や浄土教(阿弥陀信仰)で述べられているような救済観、つまり、「信者は、キリストの受難と磔刑によって、すべての罪を許され、霊的な救済を得られるのだ」、とか、「とにかく、ひたすら、阿弥陀仏を信心することによって(念仏を唱えたりして)、死後の極楽浄土への招待を待つ」、というような宗教的な救済観があるのですが、これは、冷静に、よくよく考え直してみないと、なかなか分かりづらいのですが、次のような三つの理由から、そもそも、そうした宗教的救済自体が、無理なのではないか、というのが、私の考えなのです。

 

①いくらイエスが、霊的に偉大だからって、彼が死して、すでに2000年、すでに、数千億人、いや数兆人以上に及ぶかもしれない、こんなに多くのキリスト教徒の莫大な罪をあがなえるほど、彼に、巨大な霊的な徳やパワーがあるわけないではないか

 まず第一には、これは、この世的な観点から考え直すと、非常に分かりやすいのですが、冷静に考えてみて、イエスの死後、2000年、単純に計算して、その後のキリスト教徒の人数は、おおよそ、数千億人から、場合によっては、数兆人以上にも及ぶはずなので、そうすると、いくらイエスが、霊的に偉大だからって、そんなに、たくさんの人々の、訳も分からないような莫大な罪をあがなう(つまり、罪を無償で引き受けて、清めること)ことなんて、どう考えてみても、現実に不可能なのではないか、ということです。

 

②人間の罪を許すためには、それ以前に、人間の罪、及び、その償いの方法が、明確に定義されている必要があるが、たいていの宗教では、それらが、非常に曖昧かつ不明確であるので、論理的に考える限り、そうした宗教で、罪が清められ、霊的に救われる可能性は、現実には、限りなく低いと言える

 第二には、これも、この世的に考え直すと、かなり分かりやすくなるのですが、普通、法律に基づいた裁判を行う際に、人間に罪がある、というのであれば、「どの人の、どんな行為が、どの程度の罪で、それを償うには、この程度の行為が、必要である」、などということが、あらかじめ、ある程度、明確にされていないといけないのですが、まずは、これが、そうした宗教だと、全く不明確で、その上、それでは、その罪を、信心によって、清めるというなら、「どの程度の信心によって、どの程度の時間と量、そうした信心を続ければ、それが実現できるのか」、ということが、あらかじめ、ある程度、明確にされている必要があるのですが、ところが、これに関しても、そうした宗教では、一切、述べられていないことが、非常に多い、ということなのです。

 つまり、確かに、人間として、生きてゆく上においては、何となく罪の意識を感じることがあったり、あるいは、それを、何とか償いたいと感じることがあったりするものなのですが、たとえ、そうした宗教の信心を行ったとしても、肝心要の、人間としての罪の定義や、その償いの方法が、曖昧で、根拠が不明確なものであるならば、これは、はっきり言って、申し訳ないのですが、そうした宗教における「信心による救済」ということ自体が、言ってみれば、単なるうわべ的な気分や思い込みだけで、実際には、現実無視の絵に描いた餅に過ぎないのではないか、ということなのです。

 

③普通の人間社会での道理に基づく限り、神から遣わされた偉大な人間を、散々迫害して、当時の極刑に当たるような磔刑に処したのであれば、それによって、人類の罪は、ますます重くなり、神からも、天国からも、ますます遠ざかった、と考えるのが、スジであるので、当然、それによる人類の救済なんて、あり得るはずがない

 第三には、これは、キリスト教のケースなのですが、これは、東洋人だと、すぐに思いつく内容なのですが、普通、冷静に考えてみて、イエスが、神から遣わされた、ものすごい偉大な人であったとするなら、そうしたイエスに、いろいろな受難を与えて、その上、当時の極刑に当たるような磔刑に処してしまったとするなら、普通、どう考えてみても、それによって、人類の罪は、ますます重くなり、神からも、天国からも、ますます遠ざかった、と考えるのが、普通、スジなので、こうした現実を、一切、無視して、そうしたイエスの受難と磔刑によって、人類の罪があがなわれるなんてことは、普通、どう考えてみても、全くあり得ない、ということです。

 

 

 こうした三つの理由から、私は、キリスト教や浄土教で言うような、宗教的救済なんて、そもそも、普通、どう考えてみても、無理なのではないか、というように、率直に感じております。

 

 

 このような観点から考えてみる限り、率直に申し上げて、現在、多くの宗教で説かれているような「救済」というのは、実際には、かなり難しい、とよりも、現実には、ほとんど無理なのではないか、ということなのです。

 

 続く・・・

 

Cecye(セスィエ)

2011年5月19日 9:31 PM, スピリチュアリズム、霊界 / 人生観、世界観



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