③現在の学校教育では、「子供の自由な意見や活動を重視する」というような表向きの建前と、現実の実態が、あまりに大きく遊離し過ぎているという点において、実質的には、現在の体制や社会の状況を、何でも素直に従順に受け入れるロボットのような人間集団の大量育成を行うための愚民化教育のような要素がある
第三には、これも、学者もマスコミも、あまり追求しない内容になるのですが、現代の日本の教育の内容を見ていると、あまりに、一人一人の子供が、自分の意見を、自由に発表する機会や、自由に選択できる機会がなさ過ぎる、ということです。
そうすると、教育行政の側からは、「いや、一人一人の子供の自由性や自主性は、しっかり重んじている」、というような言い訳が、すぐに聞かれるのですが、それなら、「なぜ、子供は、学校や教師やクラスを、自由に選べないのか」、とか、「なぜ、子供の側が、学習の方法を、自由に選べないのか」、というような素朴な疑問が、すぐに浮かんでくる、ということなのです。
これは、考えてみれば、全く当然のことであるのですが、民主主義国の市民というのは、基本的に、「自分の意見は、自分で決める」、とか、「自分の行動は、自分で選ぶ」、ということが、とても大切になってくるのですが、ところが、現在の教育であると、「たとえ、自分の意見があっても、結局、教師に言われたら、何でも、その通りに受け入れないといけない」、とか、「自分のやりたいことがあっても、学校にいる間は、原則、絶対にやらせてくれない」、ということになっているので、これは、はっきり言って、申し訳ないのですが、私の知る限り、現在の日本の教育行政というのは、言っていることと、やっていることが、完全に支離滅裂な分離状態になっているのではないか、ということなのです。
つまり、表向きの建前は、「君たちは、自由に発言してもいい」、だけど、現実の実態は、「とにかく、学校にいる間は、ずっと黙って、教師の話を聞いてくれないと困る(それが出来ないなら、原則、絶対に良い進学も就職もさせない)」、また、表向きの建前は、「君たちは、自由に何でも選んでいい」、だけど、現実の実態は、「この授業のカリキュラムは、絶対変更不可能だから、何でも、そのまま受け入れるしかないんだよ」、などというように、表向きの建前と、現実の実態が、あまりに大きく隔たっているにも関わらず、それを、一切、生徒や父母の側に、全く認めさせないような態度をとりすぎている、という点において、実際、かなり問題がある、ということなのです。
このような点において、現在の日本の学校教育を見る限り、これは、民主主義国の市民を育成するための教育ではなくて、現在の体制や社会の状況を、何でも素直に従順に受け入れるロボットのような人間集団を、大量育成するための実質的な愚民化教育になっているとしか、客観的に見て、全く言いようがない、ということです。
Cecye(セスィエ)