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民主主義国の休みの名称としては、本当は「国民の祝日」ではなく、「国民の休日」にすべきである

 これはよく考えてみると、全く当然のことであるのですが、現在の日本には、たくさんの「国民の祝日」があるのですが、この国民の祝日という意味を、文字通り解釈すると、「国民みんなで、こぞって、お祝いごとをする日」というような意味になるはずなのです。

 ところが、そうした目で冷静に「国民の祝日」という日を調べてみると、それぞれの個人や、あるいは、家庭や地方ごとに異なるような昔からのいろいろな慣習が含まれていたり、さらには国民的というよりも、どう考えてみても、本来、それぞれの個人が好きに選ぶべきなのではないか、と思われるような宗教的な内容に属するようなものまで、実際、たくさん含まれているということなのです。

 ですから私は、現在のように憲法において、思想、信条の自由が保証されているような国の休日の規定としては、こうした「国民の祝日」という概念は、まことに多くの人々の自由権を踏みにじるような内容に当たるのではないかと思われるので、もし国家が、国民の休みを規定するとするなら、どう考えてみても、現代のように「国民の祝日」とするのではなくて、せいぜい「国民の休日」と規定するのが、本来、民主主義国家としてはスジなのではないか、というように率直に感じております。

 

※これは表向きの話で、現在の日本のように「国民の祝日」という名称で楽しい休日が規定されてしまうと、まるで「その日は、国民全員が参加して、何らかの宗教行事を執り行っているのだ」というような霊的な解釈が、当然のように成立してしまうことになるので、霊的に見ると、そうした祝日のたびに(すべてとは言いませんが)、国全体が霊的に呪縛されて、非常に重苦しい雰囲気になったり、ガチガチに硬くなったりして、多くの人々が大変迷惑を被ることになるので、できれば、こうした多くの人々の人権をどさくさに踏みにじるような休日の規定はやめてほしい、ということです。

 

Cecye(セスィエ)

2011年5月6日 9:12 PM, コラム / 政治



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