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神聖な言語と、そうでない言語の違いと、アセンション後の世界の言語の変化について Part 1

 昔から宗教では、よく言霊(ことだま)と言って、「神聖な言葉には、魂が宿っている」、とか、「言葉には、神聖な力がある」、というような話が出てくることが多いのですが、これについての現在の私の見解を述べます。

 

1、言葉の響きそのものよりも、その言葉の指し示す、具体的なイメージや内容の方を、しっかり重視しないと、同じ言葉であっても、全く違う意味になってしまうことがある

 まず最初に、こうした言葉を神聖視する考え方の危険性について、述べたいと思うのですが、これは、単に自分の国や民族の言葉だけでなく、それ以外の英語やフランス語といった、別の言語の修得も、別段、珍しくなくなった現代人であると、比較的、分かりやすいのではないか、と思うのですが、はっきり言うと、どの言葉で話したとしても、一番、大切なことは、話している言葉自体の響きではなくて、その言葉で伝えたり、表現したいと思っている、肝心の中身の方である、ということです。

 例えば、同じ「神」という言葉であったとしても、これを日本人が聞くと、神様の絵のイメージや、神社の境内の様子が思い描かれたりするのですが、それが、キリスト教の信者の方だと、神様の絵や像のイメージの他には、何となく、天の遥か彼方にいる、絶対的存在の創造主みたいなイメージになったりする、などというように、実際には、そうした「神」という言葉自体の響きには、ほとんど意味はなくて、それよりかは、そうした言葉で指し示している、イメージや考え方の方を、しっかり理解できていないと、はっきり言って、同じ言葉であっても、全く違う意味になってしまうことすらある、ということなのです。

 こうした観点から考えてみる限り、私は、言葉自体を神聖視するような古い宗教の考え方というのは、特に現代のような国際的な時代には、もうかなり時代遅れになっていて、それよりかは、そうした言葉の指し示す、具体的なイメージや内容の方を、しっかり理解した上で、表現したり、伝えたりすることの方が、遥かに重要なのではないか、というように考えています。

 

 続く・・・

 

Cecye(セスィエ)

2011年4月16日 9:14 PM, アセンション後の世界 / スピリチュアリズム、霊界



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