今回も、前に書いた文章からの抜粋になります(途中からで、分かりづらい方が、カテゴリ—の「アセンション・シリーズ」の中から、もっと前の所から、お読みになることを勧めます)。
高次元世界における生命活動の注意点―自分の思念や認識のコントロール
ここで、一つだけ問題が発生することになってくるのですが、それというのは、五次元以上の世界のように、自分自身のすべての願望や希望が、ことごとく現実化してゆくような世界の中では、自分自身が、一体、いかなる願望や希望を持つか、ということによって、自分にとって、最高の幸福を創り出すこともできれば、その反対に、自分にとって、最低の不幸を創り出すこともできるし、また、それとほとんど同じような選択肢として、自分以外の他の人々や生命達に対して、最高の幸福を創り出すこともできれば、その反対に、自分以外の他の人々や生命達に対して、最低の不幸を創り出すことすら、やろうと思えば、現実にできるようなところがある、ということなのです。
それゆえ、そうした五次元以上の世界においては、自分と他の人々や生命達との関係上、「ここまでは、やってよい(つまり、願望や希望として持ってもよい)けれども、これ以上は、ダメである(つまり、たとえ、個人的な願望や希望であっても、持つべきでない)」、とか、「こうした行為については、何をやっても、全くOKであるけれども、こうした行為に関しては、十分に注意して、やってもらわないと困る(つまり、願望や希望として持つ場合には、いろいろな注意事項や制限項目が必要である)」、というような注意事項や制限事項のような内容が、どうしても必然的に出てくることになってくるのです。
ところが、ここで問題なのは、これは、私達の生活の中でもよくあるような内容なのですが、あまりに自分のやりたいことに注意を集中し過ぎてしまうと、それが高じて、いつの間にか、周りのことが、全く見えなくなってしまう、とか、あるいは、何らかの理由でもって、いつの間にか、自分の中で、勝手に強く自己限定して、思い込んでしまうようになると、「これは、絶対に、こうしないといけない」、とか、「これをやると、絶対に危険である」、などという具合に、本当は、簡単にできるようなことであっても、非常に難しく感じて、全くできなくなってしまうようなことが起きたり、あるいは、いつの間にか、周りの世界が、全然、見えなくなって、自分一人だけの精神世界(と言っても、かなりのリアリティーを伴いますが)の中に完全に閉じこもってしまって、そこから、全く出られなくなってしまうようなことが、現実にあり得る、ということなのです。
それゆえ、こうした五次元以上の高次元の世界においては、常に、「現在、自分は、一体、どういう状況にあるのか」、とか、あるいは、「自分は、今、一体、どこの世界で、どういう活動をしているのか」、ということを、かなりの客観性と正確性をもって、把握できることが、非常に重要になってくるのです。
ところが、もし何らかのトラブルに巻き込まれたり、あるいは、何らかの悪意によって陥れられてしまい、そうした、現在、自分の置かれている客観的な状況や、あるいは、現在、自分の活動している世界についての正確な認識というものが全く分からなくなってしまい、その上、いざという際に、自分を助けてくれるはずの霊的なマスターや自分の友人に当たるような存在とも、全く連絡や通信が不可能になるような状況に陥ってしまった場合には、そうした状況から抜け出すのは、本当に容易な努力や助けでは、なかなかできないくらい、非常に難しいものになってしまう、ということなのです。
それゆえ、こうした五次元以上の高次元の世界においては、いくら何でも自由に、自分の最高の幸福を追求していってよいような理想世界であると言っても、自分自身の生命としての安全の確保のために、また、他の人々や生命達に、できるだけ迷惑をかけたりしないようにするために、ある程度、自分の願望や希望を思いとどめて、自分自身の創造力のパワーを限定すると同時に、常に自分の意識を目覚めた状態に保ち続けて、自分自身の創造力のパワーを過度に限定し過ぎない、というような、一種の「魂としてのバランス感覚」のようなものが、非常に重要になってくる、ということなのです。
これは、地上の世界の感覚で言うと、「民主主義社会の市民は、基本的に自由な意志と行動によって、最高の幸福を追求してよい」、というのは、全く当然の市民の権利であるが、それにも関わらず、「民主主義社会の市民は、自分自身が堕落したり、他の人々に迷惑をかけたりしないように、ある程度、自分自身の自由の自制が必要であるのだが、ただ、だからと言って、自分達の自由を踏みにじるような独裁者の意のままに動かされるは、全くごめんであるし、また、訳の分からない洗脳教育やマインドコントロールをされて、自分達自身の意志や行動でもって、自分達の自由を封じ込めるようなことをさせられるのも、全くごめんである」、というような立場と全く同じであるのですが、このように、実は、五次元以上の高次元の世界であるからといって、すべての生命にとって、全く平和で安全であるというわけではなく、そうした高次元の世界には、高次元の世界ならではの生命の危険や、あるいは、それなりの活動の難しさというものも、常に同時に存在していた、ということなのです。
Cecye(セスィエ)
2011年4月16日 9:07 PM, アセンション・シリーズ 3