ちょっと文章がなくなってきたので、前に書きためた文章を、少しずつ載せてゆきたいと思います。
どんなに優れた覚者や指導者のような人物であったとしても、その人を、あまりに高く持ち上げて、崇めるような信仰や修行のスタイルは、非常に危険である
アセンション以降の、今後の時代においては、基本的な精神態度として、たとえ、いかなる偉大な指導者やグルのような精神指導者であったとしても、その人を、あまりにも高く持ち上げて、崇め過ぎるような信仰のスタイルや精神的態度を持っていると、そうした態度自体が、アセンション以前の時代における光と闇の時代の差別や分割の概念であるために、霊的には、そうして、自分では、全く善意のつもりで行っている信仰や修行自体が、いつの間にか、そうした精神指導者自体を、霊的に縛り上げて(つまり、物質的にしてしまう、というか、ガッチリと硬く固めてしまうような、霊的な作用があるので)、より低波動の世界に押し込めるようなマイナスの霊的な働きがあると同時に、また、自分自身をも、霊的に縛り上げて、それと同様の、より低波動の世界に押し下げるようなマイナスの霊的な働きがあるので、本当は、こうした信仰のスタイルや精神態度というのは、霊的、あるいは、宇宙的に見た場合、絶対にやってはいけないような、非常に危険な霊的な行為であった、ということなのです。
しかしながら、現在の地球の宗教事情というものを見回してみれば、誰でも分かるように、現在のこの地球上の宗教においては、そのほとんどすべての宗教や宗派の信仰や修行のスタイルにおいて、名前や個性は、いろいろとあるのですが、霊的に偉大な光の存在や、あるいは、歴史上、現れた、偉大な精神指導者達を、普通の人間よりも、遥かにずば抜けて、ものすごく特別な存在として持ち上げては、毎日のように崇め立てたり、何か祈願や瞑想のようなことをしているような風景というのを、はっきり言って、古今東西、どこででも見ることができる、ということが言えるのですが、実は、霊的、あるいは、宇宙的に見ると、こうした信仰のスタイル、並びに、精神的な態度というのは、四次元以下の低波動の宇宙領域において、非常によく見られるような、典型的な「奴隷の宗教」や「政治宗教」の姿以外の何物でもない、ということなのです。
その一番の特徴というのは、とにもかくにも人間の考え方や行動の枠組みというものを、ある一定の範囲内の小さな領域に、完全に限定してゆくと同時に、そうした、ほとんど無力で、無価値の人間という存在を、圧倒的な慈悲や知恵や奇跡によって、慰めたり、救済したり、導いたりするような、自分よりも絶対的に上位の無限で偉大な光の存在や、そのパワーに対して、ひたすら、謙虚に恭順の意を示して、礼節を立てて、敬ったり、その教えや修行の方法を、一方的に受け入れたり、あるいは、何らかの願い事や相談をしたり、霊的な一体感を得ることでもって、悟りとしてゆくような宗教のあり方であるのですが、これは、詳しくは、また、別のページで述べたいと思うのですが、要は、こうした宗教のあり方であると、いつまで経っても、アセンションした高次元の光の宇宙領域ではなく、それより下の低次元の暗闇の波動領域の世界の中に引き込まれたり、あるいは、みすみす自分自身の意思でもって、そうした低波動の宇宙領域の世界に入り込んだまま、出られなくなってしまうような、非常に危険な事態になりがちであった、ということなのです。
Cecye(セスィエ)
2011年1月26日 9:20 PM, アセンション・シリーズ 5 / 人生観、世界観