たいてい、どの宗教も人間集団である以上、長い年月の間には、本来の宗教とは、かなり違った「神仏」の名を借りた宗教サービスを行う一営利企業のような運営にだんだん、すり替わってゆくことになる
このように、いろいろな宗教というものを、普通の企業のような単なる人間集団の一種であるというような目で見てみると、これは非常に不思議なことであるのですが、実は、こうした人間集団で祭られている「神仏」と呼ばれる存在というのは、ちょっと喩えは悪いのですが、言ってみれば、その企業の主要な商品やサービスは何なのか、ということを一番如実に表す存在になってしまうので、そうすると、どの宗教であっても、たいてい以下のような五つの商品展開、というか、サービス展開というものを、どうしても、その人間集団の維持のために計らざるを得なくなっていってしまうのです。
①たいてい宗教で祭られる神仏というのは、その教団の規模や運営の長さに比例して、その偉大さや功徳が、どんどん拡大解釈され、誇大表現になってゆくものである
まず第一には、たいてい宗教というのは、それほど、きっちりとした証明というものは求められずに、「その信仰によって初めて、その真価を知ることができる」というようなスタンスをとることが非常に多いので、その結果、そこで祭られる「神仏」というのは、偉ければ偉いほどいいし、強ければ強いほどいいし、また優しければ優しいほどいいし、賢ければ賢いほどいいし、それから正しければ正しいほどいいなどというように、はっきり言うと、その教団の規模が大きくなればなるほど、また、その運営の月日が長くなればなるほど、その偉さや強さや優しさや賢さや正しさといった、その神仏の偉大さや功徳の要素というものが、どんどん拡大解釈され、誇大表現になってゆくことが非常に多かったということです。
②たいてい宗教で恐れられている悪魔というのも、その教団の規模や運営の長さに比例して、その怖さや邪悪さが、どんどん拡大解釈され、誇大表現になってゆくものである
第二には、これは、そうした「神仏」の発展過程と、たいてい対をなすことが非常に多いのですが、そうした「神仏」の偉大さや功徳を際(きわ)立たせるための脇役である「悪魔」という存在は、悪ければ悪いほどいいし、強ければ強いほどいいし、また、ずる賢ければ、ずる賢いほどいいし、醜ければ醜いほどいいし、それから怖ければ怖いほどいいなどという具合に、これも同じく、その教団の規模が大きくなればなるほど、また、その運営の月日が長くなればなるほど、どんどん、その悪さや強さやずる賢さや醜さや怖さといった、その悪魔の怖さや邪悪さの要素というものが、どんどん拡大解釈され、誇大表現になってゆくことが非常に多かったということです。
Cecye(セスィエ)