2、試験教の本尊ー「教師」と「数字(点数)」
第二には、これは、あまり深く考えたことのある人は、ほとんどいないのではないか、と思われるような内容なのですが、実は、どの宗教にも、その宗教にとって、最も大切と思われているような本尊(礼拝の対象になっているもの)があるように、実は、試験制度にも、客観的、というか、霊的に見る限り、これは、どう見ても、試験制度の本尊であるとしか言いようがないものが、確かにある、ということなのです。
それは、一体、何なのか、というと、これは、よくよく冷静に考え直してみないと、よく分かりづらいのですが、一つは、「教師」であり、もう一つは、「数字」である、ということです。
それでは、学校の教師が、なぜ、試験制度における宗教の本尊のような立場になってしまうのか、というと、理由は、二つあるのですが、まず第一には、学校に所属すると、とにもかくにも、教師の指示や命令に対して、生徒は、絶対に従わなくてはならない、というような、言わば、学校における「絶対基準」のような役割を、教師が果たしている、ということと、第二には、もし、そうした教師の指示や命令に、生徒が従わない場合には、教師は、原則、どの生徒に対しても、自分の好きなような評価や判断を下すことができる、というような点において、これは、宗教における本尊の、基本的な三つの性質、つまり、まず第一には、その宗教の信者は、その宗教の本尊に対して、絶対的な注意と関心を向けなくてはならない、ということと、第二には、その宗教の信者は、その宗教の本尊の意思と思われるものに対しては、絶対的な忠誠を誓わなくてはならない、というか、絶対的に従順に従わなくてはならない、ということと、それから、第三には、その宗教の信者は、その宗教の本尊のもたらす、さまざまな幸福の恩恵、つまり、何らかの評価や、ご褒美を、精神的な支えとしている、というような三つの性質と、非常によく似た性質を持っているからなのです。
それゆえ、学校の様子と、宗教の様子というものを、客観的に比べた場合、はっきり言って、その根本的な要素、というか、性質や役割の部分に関しては、学校の教師であっても、それから、宗教の本尊であっても、実は、あまり変わりない、ということになってくるのですが、もう一つ、これも、ちょっと、よくよく冷静に考え直してみないと、分かりづらいのですが、試験制度において、非常に重視される、正確、かつ、公平な結果を表すはずの「数字」というものが、まるで、宗教における本尊のような、非常に不思議な役割を果たすことになっている、ということなのです。
それでは、試験の正確、かつ、公平な結果を表すはずの「数字」、つまり、「テストの点数」の、一体、どこが、宗教の本尊と似ているのか、というと、まず第一には、多くの人々は、実際の人や物を見たわけでもないのに、なぜか、数字を見ると、それだけで、すべて分かったような、不思議な感覚を持ちがちである、ということと、第二には、これも、よく考えてみると、非常に不思議なことであるのですが、人間というのは、数字を見ると、なぜか、その数字というのは、絶対に動かしがたい事実、というよりも、絶対の真実を表しているものであると錯覚して、その数字を、まるで、絶対の神のように、そのまま受け入れようとするようなところがある、ということと、それから、第三には、客観的に見る限り、はっきり言って、さほど違いがあるとは言えないような多くの人々に、数字で、順位を付けると、その段階で、なぜか、多くの人々は、まるで、それぞれの順位の人間が、全く違った別人、もしくは、別の世界の人間であると、一瞬にして、思い込んでしまうような、非常に不思議な習性がある、ということと、そして、第四には、これも、考えてみると、非常に不思議なことであるのですが、多くの人々は、なぜか、数字を見ると、その時点で、思考がストップしてしまい、それ以降、そうした数字を元に、いろいろ理屈をつけて、考え直してみる、とか、そうした数字自体を変えるために、何らかの努力を試みてみる、というような、人間としての思考や行動を、ほとんど、とろうとしなくなる、というような、非常に不思議な性質を持っているからなのです。
これは、先ほど述べた宗教の本尊の特性(もう一度、読み返してくださると、よく分かります)と、極めて、よく似た性質を、そうした数字そのものが持っている、ということを、間接的に説明していることになるのですが、ここで問題なのは、数字の場合は、いっけん、人間的な要素が、全く表に出てこないような形になっていることが多いので、その結果、こうした数字が、全面に出てくるような試験の形式にしておくと、いつの間にか、多くの人々は、「そうした試験のやり方も、試験の結果も、絶対に正しいはずだ」、とか、「試験で出てきた結果は、人間的な創意工夫や努力を超えた、絶対に正しい結果のはずだ」、などと、何となくではあるのですが、結構、強く確信して、受け入れてしまうようなところがあるので、その結果、こうした客観的な数字に基づく試験制度をやっている国というのは、だんだん、そうした試験制度そのものの是非に対しては、どんなに高名な学者や宗教家からも、また、どんなに優秀な政治家や経営者からも、はっきり言うと、どこの誰からも、何の異論や批判も言えないような状況になってゆくばかりか、また、もし、万が一、そうした試験制度自体に対する反対意見や改革案が出てきたとしても、なぜか、誰も全く耳を貸そうとしない、というような、極めて、異常な状況に、どこの国であっても、なってしまいがちであった、ということなのです。
ですから、これは、非常に不思議なことであるのですが、試験結果というものを、正確、かつ、公平に出すために、数字を使っていると、なぜか、そうした試験制度そのものを、非常に硬直化させて、誰も批判も改善もできなくさせるような、思わぬ弊害が出てくることになってしまう、ということなのです。
このように、いっけん、宗教とは、何の縁も関係もなさそうな試験制度にも、宗教とほとんど同じような、いわゆる、本尊に当たるようなものがあって、それが、実は、「教師」と「数字」という、二つの要素であった、ということなのです。
追伸
つまり、本当は、学校というのは、単に授業をして、試験をして、成績をつければ、それでOKなんていうのは、完全に間違いで、そうではなく、本当の教育機関の仕事としては、たくさんの子供達に対して、授業をして、テストをするなら、もし、その段階で、よく分かっていないような子供を発見したら、そこで、一体、どれだけ、そうした子供達に対して、細かく、親身になって、指導することによって、「みんな、本当に、よく分かった」、「よく出来た」、と言えるような状態にしてゆくか、ということが、本当の仕事のあり方になってくるはずなのですが、それが、現在の学校だと、全然、出来ていなくて、とにもかくにも、多くの子供達に対して、機械的に授業をしては、これまた、機械的にテストをして、そして、次々と点数や成績を付けては、それで、おしまい、というような形式になっているのですが、これって、一昔前に、完全に失敗した社会主義の農業や工業のやり方、つまり、「とにかく、収穫高や品質なんて、全然、気にしないでいいから、とにかく、全員、偉い人の言われた通りにやればいいんだ!」、というような農業や工業のやり方と、ほとんど変わりないのではないか、ということなのです。
それと、もし、多くの子供達に、テストで、点数を付けるなら、その点数は、子供の点数じゃなくて、本当は、教師の点数と、学校の点数でもあるし、それから、ついでに言うと、教育行政に携わる役人の点数と、政治家の点数でもある、ということです。
それというのは、この場合、国家が、子供達を、強制的に、学校に集めて、義務教育しているのだから、本来、子供にも、また、親にも、学校や、学校行政に携わる役人や政治家に対する管理や指導の不足ということ以外には、全く責任は、発生しないはずだからです。
ですから、もうそろそろ、日本の学校教育においても、「とにかく、教師の言われた通りにすればいいのだ!」、とか、「テストして、ダメなのは、子供と親の責任でしょ!」、などというような、形だけの一方的な無責任教育のやり方は、根本から、改め直すべきなのではないか、ということなのです。
Cecye(セスィエ)