青少年期に、たくさんの難しい試験を受けさせられてきた、多くの人々は、大人になると、ほぼ反射的に、「試験のことなんて、もう二度と考えたくない」、と考えるようになり、そうした試験制度自体の良し悪しについては、全く考えようとしなくなる傾向がある
それもこれも、元をたどると、前にも、少し述べたような試験制度の弊害、つまり、試験に受かった人達は、「ああ、良かった。当分、少しでも、楽な生活がしたい」、とか、「こんな大変な試験を通ったのだから、もう当分、試験のことは、考えたくない」、などと、たいてい、強く思いがちである、ということと、それから、その反対に、そうした試験に落ちた人達は、「自分と、試験に合格した人達とは、全く違うんだ」、とか、「もう試験に落ちた以上、自分には、こうした試験を批判するような資格は、全く、ないんだ」、などと、たいてい、強く思い込んでしまうことが、多いので、その結果、そうした試験制度に対する人々の関心というのは、ほとんどの人々にとっては、それが、受かったのか、それとも、落ちたのか、ということだけが、常に、主要な関心になりがちであった、ということと、それから、多くの人々の感覚としては、これは、はっきり言って、申し訳ないのですが、自分が、体験した試験の数が、多ければ、多いほど、また、その試験が、難しければ、難しいほど、そうした試験を、あまり受けなくても済むような社会人の年齢になると、「試験」と聞くと、ほぼ反射的に、「面倒くさい!」、とか、「考えるのも嫌だ!」、などと、すぐに思いがちであるので、その結果、多くの人々の興味や関心としては、そうした試験の合否や、試験の内容自体に関しては、かなり真剣に調べたり、考えたりするような傾向があるのですが、ところが、肝心の、そうした試験を主催している運営団体の中身や、そうした試験制度そのものの良し悪しに関しては、ほぼ完全に、誰も、深く考えようともしなければ、実際に調べるなんてことは、滅多にしない、というような社会の状況になりがちであった、ということなのです。
その社会で、試験の権威が、ある程度、できあがると、次には、試験の数が、だんだん、爆発的に増え始めると同時に、そうした試験を通っていない人間を、いろいろな手段で、排除するような社会の仕組みができあがってゆく
ここで、さらに、ややこしい事態が、持ち上がってくることになるのですが、それは、一体、何であるのか、というと、こうした試験制度の利権、というか、実権のようなものを、しっかりと握った、言わば、隠れた特権階級のような人々が、次には、何を始めるのか、というと、それは、そうした試験制度の利権の旨味を、もっともっと最大化してゆくために、これは、たいてい、公のお金が使われることが多いのですが、いろいろな理由を付けては、どんどん、いろいろな名目の試験を作っては、そうした試験の社会的な効用を、多くの人々に、盛んに信じ込ませようとするような、一種の「試験教」と言ってもよいような、いろいろな試験の大々的な広報活動を行い、その信者の獲得に邁進するようになる、ということと、それから、これは、まずは、どこの誰からも、絶対に批判も追求もされないような内容になるのですが、次には、いろいろな理由を作っては、そうした試験を通っていないような人間を、新しい法律を、次々と作っては、強制的に、仕事ができないようにしたり、あるいは、裏から、いろいろな嫌がらせをして、排除するようなことをし始めてゆくことが、非常に多い、ということなのです。
Cecye(セスィエ)
2010年12月9日 9:31 PM, 教育